藤原忠房
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 延長6年12月1日(929年1月15日) |
官位 | 従四位上、右京大夫 |
主君 | 光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 藤原京家 |
父母 | 父:藤原興嗣、母:貞元親王の娘 |
妻 | 兵衛命婦(藤原高経の娘) |
子 | 親衛、千兼、親公、女子 |
特記 事項 | 中古三十六歌仙の一人 |
藤原 忠房(ふじわら の ただふさ)は、平安時代前期の貴族・舞楽家・歌人。藤原京家、右京大夫・藤原興嗣の子。官位は従四位上・右京大夫。中古三十六歌仙の一人。
経歴
[編集]仁和3年(887年)信濃掾に任ぜられると、周防権掾・播磨少掾と光孝朝から宇多朝にかけて地方官を歴任する。
宇多朝末の寛平9年(897年)正月に左兵衛権少尉と武官に転じると、同年7月の醍醐天皇即位に伴い六位蔵人兼左近衛将監に任ぜられる。昌泰4年(901年)従五位下に叙爵した後も、左兵衛権佐・左近衛少将と醍醐朝前半は武官を歴任した。
延喜16年(916年)正五位下・信濃権守に叙任され再び地方官に転じると、延喜20年(920年)大和守と、醍醐朝後半は一転して地方官を歴任。この間、延喜22年(922年)従四位下に叙せられると、延長3年(925年)には治国の功労により従四位上に昇叙されている。同年山城守。
延長5年(927年)右京大夫として京官に復すが、翌延長6年12月1日(929年1月15日)卒去。
人物
[編集]一門には雅楽に秀でた者が多く、忠房も琵琶の名手であった父の興嗣よりその才を受け継ぎ、歌舞や管絃の分野において活躍した。忠房が作曲し敦実親王が振付を施した胡蝶楽や延喜楽は、高麗楽の代表的な作品として知られる。延喜16年(916年)の宇多法皇五十御賀において、笙の名手であった参議・藤原保忠とともに楽行事を務めている。
また歌人としての名声も高く、延喜6年(906年)に開催された「日本紀竟宴和歌」や、延喜21年(921年)の「宇多法皇春日行幸名所和歌」などに出詠するとともに、同じく延喜21年(921年)の「京極御息所歌合」では判者を務めた。延喜13年(913年)3月に宇多法皇が主宰した「亭子院歌合」においても、天皇により判者に指名されたが、恐れ多いとして断り当日参加しなかった。
中古三十六歌仙の一人として知られ、勅撰和歌集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』)に17首が入首している[1]。
官歴
[編集]『中古歌仙三十六人伝』による。
- 仁和3年(887年) 2月2日:信濃掾
- 寛平4年(892年) 正月23日:周防権掾
- 寛平5年(893年) 4月29日:播磨少掾
- 寛平9年(897年) 正月26日:左兵衛権少尉。7月15日:六位蔵人。7月26日:左近衛将監
- 昌泰3年(900年) 4月2日:兼近江権掾
- 昌泰4年(901年) 7月7日:従五位下
- 延喜2年(902年) 2月23日:兼備前介
- 延喜4年(904年) 2月26日:左兵衛権佐
- 延喜10年(910年) 正月7日:従五位上
- 延喜11年(911年) 正月13日:左近衛少将
- 延喜13年(913年) 正月28日:兼近江権介
- 延喜15年(915年) 正月12日:兼美作介[2]。正月21日:正五位下[3]
- 延喜16年(916年) 8月29日:信濃権守[3]
- 延喜20年(920年) 正月30日:大和守
- 延喜22年(922年) 正月7日:従四位下
- 延長3年(925年) 正月7日:従四位上(治国)。正月30日:山城守
- 延長5年(927年) 正月12日:右京大夫
- 延長6年(928年) 12月1日:卒去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。