藤原定綱
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時代 | 平安時代中期-後期 |
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生誕 | 長元3年(1032年) |
死没 | 寛治6年12月19日(1093年1月18日) |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流→小野宮流 |
父母 |
父:藤原頼通 母:藤原祇子(藤原頼成の娘) 養父:藤原経家 |
兄弟 |
通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、寛子(後冷泉天皇皇后)、師実 養兄弟:公定、公円 |
妻 | 大江定経の娘 |
子 | 定実、家信、慶実 |
藤原 定綱(ふじわら の さだつな、長元3年(1032年) - 寛治6年12月19日(1093年1月18日))は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家、関白太政大臣・藤原頼通の四男。藤原北家小野宮流、権中納言・藤原経家の養子。官位は正四位下・播磨守。
経歴
[編集]関白太政大臣・藤原頼通の四男として生まれるが、小野宮流の藤原経家の養子となる。
従五位下に叙爵後、後冷泉朝の天喜4年(1056年)ごろ伯耆守を務め、任期後の康平2年(1059年)治国の功労により従五位上に叙せられる。その後も、備中守・伊予守と地方官を歴任し、この間に康平3年(1060年)正五位下、治暦3年(1067年)従四位下、治暦4年(1068年)従四位上と昇進する。
のち、正四位下・播磨守に叙任されるが、同母兄弟の俊綱・忠綱と同じく、摂関家の子弟でありながら公卿昇進はならなかった。寛治6年(1092年)12月19日卒去。享年61。最終官位は前播磨守正四位下。
官歴
[編集]- 時期不詳:従五位下
- 天喜4年(1056年) 4月30日:見伯耆守[1]
- 天喜6年(1058年) 4月:辞伯耆守[2]
- 康平2年(1059年) 正月5日:従五位上(治国)[2]
- 康平3年(1060年) 8月11日:正五位下(高陽院遷幸)[3]
- 康平7年(1064年) 12月21日:見備中守[4]
- 治暦3年(1067年) 10月7日:従四位下(平等院行幸)[5]
- 治暦4年(1068年) 11月21日:従四位上[6]
- 承保元年(1074年) 日付不詳:伊予守[7]。12月25日:見伊予守[8]
- 承保4年(1077年) 10月3日:兼内蔵頭[9]
- 承暦4年(1080年) 4月14日:見伊予守[10]
- 時期不詳:正四位下[11]
- 寛治3年(1089年) 6月15日:見播磨守[12]
- 寛治6年(1092年) 12月19日:卒去(前播磨守正四位下)[13]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。