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薩妙観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

薩 妙観(さつ/さち の みょうかん、生没年不詳)は、奈良時代前期の女官氏姓は薩(無姓)のち河上(かわかみ)忌寸位階正五位下

経歴

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持統天皇の時に音博士をつとめた薩弘恪の一族のものと思われる。

養老7年(723年)1月、夫人藤原宮子ほか女王・女官の叙位の際に従五位上[1]

神亀元年(724年)5月、「河上忌寸」の氏姓を賜与され[2]天平9年(737年)2月に正五位下[3]

このほかにも『万葉集』に以下の和歌が収録されている。

薩妙観 、(先太上天皇、元正上皇の)詔に応(こた)へて和(こた)へ奉(まつ)る歌一首

ほととぎす ここを近くを 来鳴きてよ 過ぎなむ後(のち)に 験(しるし)あらめやも

(ほととぎす ここの近くで 来鳴いておくれ ここから去ったら 鳴いても甲斐があろうか)[4]
天平元年(729年)の班田の時に、使ひの葛城王(=橘諸兄)、山背国より薩妙観命婦等の所に贈りし歌一首(芹子(せり)の裹(つと)(=包み)に副ふ)

あかねさす 昼は田賜(た)びて ぬばたまの 夜(よる)の暇(いとま)に 摘める芹これ

((あかねさす)昼は班田に追われ (ぬばたまの)夜の寸暇に 摘んだ芹ですよ これは)

薩妙観の報(こた)へ贈る歌一首

ますらをと 思へるものを 大刀佩きて 可爾波の田居(たゐ)に 芹そ摘みける

(ますらおと 思っておりましたのに 大刀を佩いて 綺田(かばた)の田んぼで 芹なぞお摘みになって[5]

天平9年以降の事績は不明である。

官歴

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続日本紀』などによる。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』巻第九、元正天皇 養老7年正月10日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第九、元正天皇 神亀元年5月13日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第十二、聖武天皇 天平9年2月14日条
  4. ^ 『万葉集』巻第二十、4438番
  5. ^ 『万葉集』巻第二十、4456番

参考文献

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