蔦井政信
つたい まさのぶ 蔦井 政信 | |
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生誕 | 1927年9月13日[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 北海道庁立滝川中学校[1] |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 蔦井冨美子[2] |
蔦井 政信(つたい まさのぶ[1]、1927年9月13日[1] - )は、日本の実業家。北海道滝川市出身[3]。
経歴・人物
[編集]道南海運社長や東日本フェリー初代社長、北海道旅客船協会会長を務めた蔦井與三吉の息子として生まれ[4]、1946年に旧制滝川中学校を卒業[1]。父が経営する稚内利礼運輸の経営不振や終戦後の混乱で大学進学を断念し[5]、同年蔦井木材工業所に入社[6]、稚内へ移り家業に専念し[3]、1951年には稚内利礼運輸取締役となる[6]。1957年には日本通運札幌支店に監査役として入社し[6]、昭和30年代序盤の3年間で支店の監査や指導を行った[3]。
その後は1961年に桑園倉庫常務[6]、1964年7月に道南海運専務[7]、1965年7月に東日本フェリー専務取締役[7]、蔦井商事監査役といった[8]、蔦井グループの要職を務める。
1974年に父・與三吉の死去に伴い専務取締役から昇格し東日本フェリー2代目社長に就任[2]。室蘭 - 大洗航路への就航等で80年代後半には東日本フェリーを単独のフェリー会社として日本最大の規模に成長させ[4]、その後も日本海航路への参入や青函航路への高速船導入[7]、ホテルやスキー場などの事業多角化といった拡大路線を推し進め最盛期には10数社のグループ企業を擁した[9]。
この他北海道旅客船協会会長[10]、日本旅客船協会副会長[7]、札幌ケーブルテレビジョン社長も務めた[11]。1990年には藍綬褒章を受章[7]、1992年には海の記念日に際して運輸大臣表彰を受ける[12]。札幌ケーブルテレビジョン社長については経営悪化によるタイタス・コミュニケーションズとの資本提携に伴い1997年4月に退任[13]。
2003年6月に会社更生法適用に伴い東日本フェリー社長を辞任[14]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 蔦井政信 - 全日本紳士録昭和40年版(人事興信所)つ18頁
- ^ a b 函館で最初で最後の矢野家の結婚式 矢野函館市長・長男・徹郎氏と東日本フェリー蔦井政信社長・長女真弓さんが挙式 - はこだて財界1982年1月号(函館財界問題研究所)
- ^ a b c 東日本フェリー三十年史(東日本フェリー 1995年)53-54頁
- ^ a b 長距離フェリートップインタビュー(7) 酒井徳三郎東日本フェリー専務 - 内航近海海運1987年8月号(内航ジャーナル)
- ^ 焦点トップインタビュー 蔦井政信さん - 道新TODAY1995年2月号128-131頁(北海道新聞社)
- ^ a b c d 蔦井政信 - 産経日本紳士年鑑第8版下(産業経済新聞社 1969年)た行192頁
- ^ a b c d e 絶好調!東日本フェリー(株)岩内-直江津-室蘭航路開設、青函間に超高速艇ジェットフォイル「ゆにこん」就航に続いて蔦井政信社長藍綬褒章受章で沸く! - はこだて財界1990年12月号(函館財界問題研究所)
- ^ 銀行・会社要覧 蔦井商事 - 北海道年鑑昭和38年版(北海道新聞社1962年)674頁
- ^ 蔦井グループが崩壊 ツタイ商事再生法申請各社は独自路線へ - 北海道新聞2005年3月15日朝刊
- ^ 北海道旅客船協会「北海道旅客船協会65年のあゆみ」 - 北海道インバウンドインフォ(北海道開発協会開発調査総合研究所)
- ^ 日本のケーブルテレビ発展史 沿革III 支部活動の記録 - 日本ケーブルテレビ連盟
- ^ 資料と情報 運輸大臣表彰 - 旅客船No.181(日本旅客船協会 1992年)
- ^ マスコミ裏街道 伊藤忠の軍門に降ったSCAT - 財界さっぽろ1997年6月号(財界さっぽろ)239頁
- ^ 東日本フェリー4社社長に藤氏 東日本海陸輸送は湯佐氏 - 北海道新聞2005年2月16日朝刊