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蒔田政勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蒔田政勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 不明
死没 慶長12年4月13日1607年5月8日
改名 廣政(初名)→政勝
別名 廣政/広政、正次[1]
通称:助之丞[2]、主水正
官位 従五位下
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 蒔田氏
父母 父:蒔田広光
兄弟 政勝広定
あり[3]
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蒔田 政勝(まいた[4]/まきた[2] まさかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名豊臣家の譜代家臣。通称は主水正。は初めは広政で、正次ともいった[1]

略歴

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尾張国織津の出身という蒔田広光の長男。姓は『寛政譜』等では「まきた」と読みがふってある[2]

豊臣秀吉に仕えて金切裂指物使番となった。主に「蒔田主水正」の名で知られ、秀吉の小姓である蒔田権佐は弟。

天正16年(1588年)4月14日の後陽成天皇聚楽第行幸のときに供奉。関白(秀吉)の牛車の左右の随身のうち、毛利民部大輔野村肥後守木下左京亮が左側3名、政勝・中嶋左兵衛尉・速水甲斐守が右側3名であった[5]

慶長3年(1598年)8月、病床の秀吉から志津の刀、初音の加羅香、(後陽成天皇の[2])鏡を授けられた[1]

慶長4年(1599年)頃、摂津河内和泉内で4万石を知行[6]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の役で西軍に与して減知。以後は大坂城豊臣秀頼に伺候した[1]

慶長12年(1607年)4月13日に没した[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c d e 高柳 & 松平 1981, p. 228.
  2. ^ a b c d e 堀田 1923, p. 941.
  3. ^ 子孫は久世広之の家臣。
  4. ^ 大森映子「蒔田氏」『世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E8%92%94%E7%94%B0%E6%B0%8Fコトバンクより2023年8月16日閲覧 
  5. ^ 竹中重門 著「国立国会図書館デジタルコレクション 豊鏡」、塙保己一 編『羣書類従 第20輯 (合戦部 第1(巻第369-383))』群書類従刊行会 (酣灯社)、1952年、556頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2932393/284 国立国会図書館デジタルコレクション 
  6. ^ 兵庫県警察史編さん委員会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 織豊政権と郷土」『兵庫県警察史 前史編』兵庫県警察本部、1970年、289頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9768833/163 国立国会図書館デジタルコレクション 

参考文献

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