董晋
董 晋(とう しん、724年 - 799年)は、唐代の官僚・政治家・軍人。宣武軍節度使。字は混成。本貫は河中府虞郷県[1][2]。
経歴
[編集]明経に及第した。至徳元載(756年)、粛宗が霊武から彭原に移ると、董晋は上書し謁見を受けて、秘書省校書郎・翰林待制に任じられた。衛尉丞に転じ、汾州司馬として出向した。上元2年(761年)、汾州刺史の崔円が淮南節度使に転出すると、董晋は本官のまま殿中侍御史を兼ね、淮南節度判官をつとめた。ほどなく侍御史・主客員外郎・祠部郎中に転じた。大暦4年(769年)、兵部侍郎の李涵が崇徽公主を回紇に送ると、董晋はその下で判官をつとめた。使節が帰国すると、董晋は司勲郎中に任じられた。秘書少監・太府寺少卿・太常寺少卿を歴任し、左金吾将軍となった[3][2]。
大暦14年(779年)、徳宗が即位すると、董晋は太常寺卿[4]に転じ、右散騎常侍[5]の位を受け、御史中丞を兼ね、知台事をつとめた。ほどなく華州刺史・兼御史中丞・潼関防禦使となった。長らくを経て、兼御史大夫を加えられた。建中4年(783年)、朱泚が長安で反乱を起こすと、朱泚の部下の仇敬・何望之らが華州に迫ったので、董晋は徳宗のいる奉天に逃れ、国子祭酒に任じられた。ほどなく恒州宣慰使となった。興元元年(784年)、徳宗に従って長安に帰り、左金吾衛大将軍となり、尚書左丞に転じた。貞元2年(786年)、尚書右丞の元琇が韓滉に陥れられて左遷されると、董晋はこれを憎んで、宰相に面会して元琇に罪はないと直言した。再び太常卿に任じられた[6][7]。
貞元5年(789年)、董晋は門下侍郎・同中書門下平章事に昇った。当時、国政は竇参によって決裁され、董晋はただ詔書を奉じて、追認するのみであった。竇参の驕りははなはだしく、徳宗もこれを憎むようになった。貞元8年(792年)、徳宗が竇参の過失を問うと、董晋は詳しくこれを奏上した。竇参が左遷されると、董晋は重ねて上表して辞位を願い出た。貞元9年(793年)夏、礼部尚書・兵部尚書・東都留守・東都畿汝州都防禦使として出向した[8][7]。
貞元12年(796年)夏、汴州節度使の李万栄の病が重くなり、その子の李迺が任を代行したが、軍人たちが李迺を追放して反乱を起こした。董晋は検校尚書左僕射・同中書門下平章事となり、汴州刺史・宣武軍節度営田・汴宋観察使を兼ねた。董晋は鄭州まで下向したが、宣武軍から出迎えの者はなかった。董晋の側近や鄭州の官吏たちは情勢を観望するよう勧めたが、董晋は詔を奉じて平然と進んだ。汴州の軍政は鄧惟恭が掌握していたが、董晋の速い動きに意図を計りかね、出迎えることになった。董晋は着任後、鄧惟恭を捕らえ、嶺南に配流した。陸長源を行軍司馬として軍事を委ね、判官の孟叔度に財政を委ねた。貞元15年(799年)2月、董晋は死去した。享年は76。太傅の位を追贈された。諡は恭恵といった。董晋の死後まもなく、陸長源と孟叔度は兵乱のために殺害された[9][10]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『旧唐書』巻145 列伝第95
- 『新唐書』巻151 列伝第76
参考文献
[編集]- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。