菊池門也
菊池 門也(きくち もんや、1883年(明治16年)11月17日[1][2] - 1964年(昭和39年)3月16日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]岐阜県出身[1][2][3]。旧青山藩士・菊池忠光の長男として生れる[1]。1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業[1][2][4]。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第10連隊付となる[1][4]。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校高等科(16期)を卒業[1]。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(第27期)を卒業した[1][2][3]。
1916年(大正5年)5月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第10連隊中隊長に就任[1]。参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(天津駐在)、支那公使館付武官補佐官、砲工学校教官を務め、1921年(大正10年)12月、砲兵少佐に昇進[1]。参謀本部員、参謀本部付(済南駐在)を務め、1926年(大正15年)3月、砲兵中佐に昇進[1]。同年8月、野砲兵第8連隊付となり、同年11月に帰国[1]。1927年(昭和2年)9月、参謀本部員となり、第6師団参謀、第3師団司令部付、独立山砲兵第3連隊長を務め、1930年(昭和5年)3月、砲兵大佐に進んだ[1][3]。
1931年(昭和6年)3月、野戦重砲兵第1連隊長に就任[1][3]。支那駐屯軍参謀長を経て、1934年(昭和9年)8月、陸軍少将に進級し舞鶴要塞司令官となる[1][2][3]。1936年(昭和11年)3月、野戦重砲兵第3旅団長に転じ、1937年(昭和12年)11月、陸軍中将に昇進と同時に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]。
その後、東亜研究所理事を務めた[3]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
著作
[編集]- 『済南事変外史刃のほこり』織田書店、1930年。
- 『没法子物語』高見澤木版社、1939年。
親族
[編集]- 娘婿 児井英義(陸軍中佐)・高木三郎(陸軍大尉)[1]