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菅沼政経

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菅沼 政経(すがぬま まさのり、1851年(嘉永4年2月[1]) - 1912年(大正元年)9月17日[2])は、明治時代の政治家官吏銀行家和歌山県会議長。幼名は松之凾[1]

経歴

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菅沼半兵衛の子として和歌山城下(現和歌山市)に生まれる[1]。維新後の1871年(明治4年)に上京し[3]1875年(明治8年)慶應義塾を卒業する[4]

1877年(明治10年)三浦権五郎長屋喜弥太らと協力し、旧藩主の徳川茂承より10万円の拠出を受け徳義社を設立し[4]、のち社長を務めた[1]。ほか同年、南海新報を発行した[3]

1878年(明治11年)県御用掛を経て、1879年(明治12年)2月に初代那賀郡長に就任[4]。翌年10月まで在職した[4]1881年(明治14年)4月、和歌山県会議員選挙に補欠当選し、1882年(明治15年)再選、同年6月から県会議長を務め、1885年(明治18年)8月に退任した[4]。この間、1883年(明治16年)第四十三国立銀行[注 1]頭取となった[3]

同年、和歌山師範学校長に就任し、和歌山中学校長を兼務した[4]1890年(明治23年)2月、三重県尋常師範学校長に就任した[3]1892年(明治25年)3月18日、校長の職を辞した[5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 紀陽銀行三和銀行南都銀行の前身行のひとつ。

出典

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参考文献

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公職
先代
大野徳孝
三重県尋常師範学校長
1890年 - 1892年
次代
長倉雄平
先代
色川圀士
和歌山師範学校長
和歌山県尋常師範学校長
1886年 - 1890年
和歌山師範学校長
1885年 - 1886年
次代
田中善雄
校長補
先代
色川圀士
和歌山中学校
1885年 - 1887年
次代
松山亮
和歌山県尋常中学校長
先代
(新設)
和歌山県那賀郡
1879年 - 1880年
次代
北長左衛門