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荒木村次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
荒木 村次
時代 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
改名 新五郎(幼名)→村次
別名 村安
主君 豊臣秀吉
氏族 摂津荒木氏
父母 父:荒木村重
母:北河原三河守[1][2][注釈 1]
兄弟 村次村基岩佐又兵衛、荒木局ほか
正室:明智光秀[3]
側室・碓井氏[注釈 2]
村直[注釈 3]村常
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荒木 村次(あらき むらつぐ)は、安土桃山時代武将

生涯

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摂津池田氏の家臣・荒木村重の長男として誕生。元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦い茨木氏が滅亡すると、父から摂津国茨木城主に任命されたが、実質的な城主は荒木氏家臣の中川清秀で、天正5年(1577年)に清秀が正式に茨木城主となると、村次は尼崎城(大物城)に居を移した[4]

天正6年(1578年)に父が織田信長に反逆した(有岡城の戦い)際、父に協力して有岡城を守っていた。村次は明智光秀の娘を正室に迎えていたが、この時に離別し[3][5]、後にこの女性は明智秀満と再婚をした[5]。茨木城を守備していた中川清秀が信長に帰順したため、荒木方は不利となる。天正7年(1579年)9月2日、有岡城より逃れてきた父・村重を自身の尼崎城へ迎え入れる。11月19日に信長より「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を取り付け、説得に来た荒木久左衛門らを村重は受け入れなかったため、村重・村次父子は荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利輝元を頼って逃亡した。

天正10年(1582年)の信長の死(本能寺の変)後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参戦したが、足を負傷して以後は戦場に出ることは無く、代わりに弟・村基が仕えた[1][6]。村次自身はその後も大坂に住み、秀吉には折に触れ謁した。秀吉死後は、徳川家康に召抱えられる最中に死去した[1][2]

正確な没年は不詳だが、38歳で死去しており[1][2]、そこから逆算すると生年は永禄4年(1561年)頃と推定される。

脚注

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注釈

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  1. ^ だしとする説もあるが、永禄4年(1561年)ごろに生まれた村次に対し、だしは永禄元年(1558年)ごろの生まれと年齢が近いため、おそらくは誤りとみられる。
  2. ^ 『寛永諸家系図伝』の村次の長男村直の項目に、「烏帽子形の城主碓井因幡守が女」とあり、次男村常も同母とある。ただし、寛政重修諸家譜では村常のみ「碓井氏の女」と記述が変化している。
  3. ^ 村直は「又兵衛」の名を持ち、こちらが岩佐又兵衛だとする説もある(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。

出典

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  1. ^ a b c d 寛永諸家系図伝
  2. ^ a b c 寛政重修諸家譜
  3. ^ a b 立入宗継『立入左京亮入道隆佐記』
  4. ^ 『寛永諸家系図伝』にも「摂州尼崎城に居す」とある。
  5. ^ a b 諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館、2019年)198頁
  6. ^ ただし、村基は早世している。

参考文献

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  • 畠山浩一 「岩佐又兵衛と荒木一族」、東北大学大学院文学研究科美術史学講座 『美術史学』30号、2009年

登場作品

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