茂菅
茂菅 | |
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北緯36度39分47.42秒 東経138度9分41.46秒 / 北緯36.6631722度 東経138.1615167度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 長野県 |
市町村 | 長野市 |
地区 | 第一地区 |
人口 | |
• 合計 | 384人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
380-0874 |
市外局番 | 026 |
ナンバープレート | 長野 |
※座標は茂菅保育園付近 |
茂菅(もすげ)は、長野県長野市の市街地北西の山間部に位置する地区(大字)。郵便番号は、380-0874。
全域が、長野市役所(本庁直轄)第一地区に属する。
概要
[編集]地区の中央部に頼朝山(638m)、北部に葛山(812m)がそびえ、西部から南部にかけて裾花川が蛇行している。南よりを国道406号が東西に走り、中央部で長野県道76号長野戸隠線が分かれ北に向かう。
大字鑪 | ||||
大字小鍋 | 大字西長野(往生地) 新諏訪二丁目 新諏訪一丁目 | |||
大字茂菅 | ||||
大字平柴 | 大字西長野(新諏訪町) |
中山間地の集落であるが、善光寺の西方2kmほどのところに位置し、長野市の前身である旧長野町への合併も1889年(明治22年)の町村制施行時とかなり早期である。
芋井・戸隠方面に向かう県道76号、鬼無里方面に向かう国道406号、小田切・七二会方面に向かう県道401号が分かれる、長野市西部山間部への入口にあたる地区である。集落は地区南部の旧国道406号と県道76号との交点付近の本郷、その南側の裾花川沿いに位置する外茂菅と、地区北部の頼朝山中腹にある静松寺の周辺の横棚がある。
外茂菅には1936年(昭和11年)〜1944年(昭和19年)にかけて走っていた善光寺白馬電鉄の茂菅駅があり、現在でもホーム跡が残る。この善光寺白馬電鉄の隧道内には、松代大本営計画の中で武器庫などに活用され、善光寺温泉に皇族住居が移される予定だった[1][2]。
地区西部の裾花川沿いの谷である仁棚では古くから草生水(原油)を産し、日本初の石油会社である長野石油会社は1873年(明治6年)から掘削を試みたが、石油井の開発は進まず、1881年(明治14年)に会社は倒産した[3]。
地区内の人口および世帯数は、153世帯 384人(令和5年3月1日現在)[4]。
沿革
[編集]- 1557年(弘治3年) - 武田氏が村内の葛山城・頼朝山城を攻め、いずれも落城
- 江戸時代 - 水内郡茂菅村は松代藩領であった
- 1879年(明治12年)1月4日 - 郡区町村編制法施行。茂菅村は上水内郡に属する
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行。上水内郡茂菅村、同郡長野町・西長野町・南長野町・鶴賀町(七瀬・居町を除く)と合併し、上水内郡長野町となる。旧茂菅村域は、大字茂菅となる
- 1897年(明治30年)4月1日 - 長野町が市制施行。長野市となる
- 長野市茂菅の歴史
- 1936年(昭和11年)11月22日 - 善光寺白馬電鉄が開通し、地区南部を通過する。地区内に茂菅駅が置かれる。のち、1944年(昭和19年)1月10日休止、1969年(昭和44年)7月9日廃止
- 1945年(昭和20年)7月26日 - 松代大本営「チ」号倉庫の工事命令が出されるが、着手前に終戦を迎える
- 2009年(平成21年)4月26日 - 国道406号百瀬〜茂菅バイパス開通。地区内の集落を頼朝山トンネル(L=572m)でバイパスする
交通
[編集]- 路線バス
地区内の国道406号旧道・長野県道76号長野戸隠線を走る、アルピコ交通(川中島バス)の以下の系統が利用できる。
- アルピコ交通(川中島バス)
施設
[編集]脚注
[編集]- ^ 「終戦期長野の山村疎開の諸相 ―石川達三「暗い嘆きの谷」を読む―」神子島健、2008
- ^ 「昭和史の空白(46)=敗戦「前夜」の長野憲兵隊 移転 ゲリラ戦想定、善光寺温泉へ」『信濃毎日新聞』1989年8月15日、朝刊 社会2面 9版、26面。
- ^ 『長野市誌 第8巻』東京法令出版、1997年10月16日、118,119頁。
- ^ 長野市. “長野市町別人口及び世帯数”. 長野市. 2023年3月18日閲覧。
外部リンク
[編集]- 茂菅村(図) - 信州デジタルコモンズ