若政所
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若政所(わかまんどころ、? - 慶長6年8月20日[1](1601年9月16日))は、安土桃山時代の女性。夫は豊臣秀次[2]。父は池田恒興。母は不明[2]。兄弟に池田輝政など。
実名は不明。別名、若御前。法名は致祥院殿栄岳利盛[3]。官位は正二位だったとする記録がある[4]。
概要
[編集]一般的に若政所とは、父が摂政・関白職かつ自身も同様の公卿の正室に使用される称号である[5]。
ここでは、豊臣秀次の正室であった池田恒興の娘[6]について記す[7]。
生涯
[編集]本能寺の変の後、父・池田恒興は羽柴秀吉に対し次男の池田輝政を秀吉の養子にし、娘(若政所)を三好信吉(のちの豊臣秀次)に嫁がせることを約束した[8][9]。
若政所が秀次に嫁いだとき、御輿副を池田家臣の香西又市[10]が務めたという[11][12]。秀次との間に子供は確認されていない。
文禄2年(1593年)12月16日に、秀吉から秀次、秀次の母・日秀尼と若政所に高麗の鱈が送られている[13][14]。
文禄3年(1594年)、秀次の娘である八百姫(豊臣秀頼の許嫁だったとされる)の平癒祈祷のため、書状を送ったりしている様子がみられる[15]。
没年の表記はないものの八百姫の命日を7月13日とする史料があり[3]、秀次の切腹事件以前に死亡したのではないかと推測されている[16]。
若政所も秀次事件以前に死亡したとする史料もあるが[17]、助命され実家に返されたとする史料[18]の成立の方が早いため、そちらが信憑性が高いものと思われる。
慶長6年(1601年)8月20日に亡くなった[1][19]。
脚注
[編集]- ^ a b 『池田氏家譜集成』九巻所収『池田家年譜』
- ^ a b 『新訂 寛政重修諸家譜 第五』 1964, p. 46.
- ^ a b 『東西歴覧記』
- ^ 京都妙心寺塔頭の盛岳院の過去帳による。
- ^ 『九条家歴世記録』において関白・九条幸家の次男九条道房の正室・廉貞院に対し若政所という呼称が使用されている。
- ^ 『系図纂要』では次女とする。
- ^ 菊亭晴季の娘の一の台が正室で、若政所を側室ないし死去していたとすることがあるが、少なくとも若政所(北政所に比べて若い政所という字義と思われる)という呼称をされていることから、若政所が正室であることは間違いないと思われる。
- ^ 『池田軍記』
- ^ 谷口克広著『織田信長家臣人名辞典』で、池田恒興の娘婿とされる織田信房が本能寺の変の前年に"恒興の次女"と結婚したとする記述がある。もしその恒興の次女が若政所なら、秀次とは再婚ということになる。
- ^ 香西氏の庶流の出身。『香西史』の香西家系図の香西縫殿助が『吉備群書集成』によると又市の兄にあたるため、両者の記述が合っているならば香西元定の大甥にあたる。
- ^ 『吉備群書集成. 第六輯』
- ^ 香西又市は御輿副を務めたことで天正11年(1583年)7月26日に加増されているので、秀次と若政所の結婚はそれ以前ということになる。
- ^ 『史籍集覧. 25』収録『駒井日記』
- ^ 秀次の母と共に秀吉の贈答する対象として選ばれており、このことからも正室であることが分かる。
- ^ 『兼見卿記』
- ^ 黒川道祐、上村觀光編 (1910). 『黒川道祐近畿游覧誌稿』. 淳風房. p. 98
- ^ 『古老物語聞書』
- ^ 太田牛一. 『大かうさまくんきのうち』
- ^ 『池田家年譜』では若政所を指して"秀次公簾中"としているが、寛永18年に池田光政と池田光仲が江戸幕府に提出するために作成した『池田家系図』では単に"秀次室"としている。