舟岡英之助
舟岡 英之助(ふなおか えいのすけ、1861年5月9日〈文久元年3月30日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月1日[1])は、日本の医師、医学者(生理学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は医学博士(1908年)。
第三高等学校医学部教授、岡山医学専門学校教授、岡山医学専門学校校長事務取扱、岡山医科大学医学部教授などを歴任した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1861年5月9日(旧暦文久元年3月30日)、武蔵国にて舟岡周介の長男として生まれた。周介は武士であったが、明治維新後は士族となった。英之助は医学の道を志し、帝国大学に進学し医科大学にて学んだ。当時の帝国大学は分科大学制を採用しており、学内に文科大学、法科大学、理科大学といった分科大学が設置されており、医科大学もその一つであった。大学の同期には、のちに岡山医学専門学校で同僚となる筒井八百珠らがいた。1889年(明治22年)、帝国大学医科大学を卒業し、医学士の称号を取得した。大学を卒業した翌年の1890年(明治23年)4月には、舟岡家の家督を相続した。
医学者として
[編集]その後、薬種商として尾澤薬舗を経営していた尾澤良甫の二女と結婚した。1899年(明治32年)10月、旧制の第三高等学校にて医学部の教授に就任した。第三高等学校においては、主として生理学を講じた。1901年(明治34年)9月、生理学の研究のため、ヴィルヘルム2世治世下のドイツ帝国に留学した。1908年(明治41年)5月、医学博士の学位を取得した。大日本帝国に帰国後は、旧制の岡山医科大学の教授に就任した。なお、岡山医学専門学校の校長である筒井八百珠が亡くなると、校長事務取扱に就任し、藤田秀太郎が後任の校長に就任するまでの間、学校の陣頭指揮を執った。その後、岡山医科大学が新設されると、医学部の教授に就任した。なお、従来の岡山医学専門学校は、岡山医科大学に移管され附属医学専門部として改組されたが、そちらの教授も兼務した。
研究
[編集]専門は医学であり、特に生理学に関する研究に従事した。また、1890年代に発表された「男色に就て」という論文も遺されているが、これは2000年代になって礫川全次が編纂した『男色の民俗学』に収録された。
顕彰
[編集]英之助が隠居後に住んだ邸宅が、京都工芸繊維大学のキャンパス内に遺されている。母屋は解体されてしまったものの、離れはそのまま残されている。なお、京都工芸繊維大学では、離れを一時的に外国人教師の宿舎として活用していた。
栄典
[編集]家族・親族
[編集]細田泰洲の五男であった舟岡省吾を養子に迎えている。省吾は京都帝国大学医科大学を卒業し、英之助と同じく医学者となった。のちに省吾は同じく医学者であった鈴木文太郞の三女と結婚し、母校である京都帝国大学の教授に就任している。
妻の父である尾澤良甫は、藤城三右衞門の次子として生まれたが、尾澤良輔の娘と結婚し良輔の養子となった。良甫の甥である尾澤豐太郎は、大駒平五郞の二男として生まれたが[3][4]、良甫の長女と結婚し[5]、良甫と養子縁組もしているため[5]、豐太郞は良甫の娘婿、および、養子でもある[5]。その後、豐太郞は良甫の家から分家しており[5]、良甫の家督は、良甫の長男である尾澤良助が継承している[3]。良助も薬剤師であり[3]、東京府東京市牛込区筑土八幡町の尾澤薬舗を継承し[3]、尾澤総本店と称していた[3]。良助の長男に尾澤良靖がいる[3]。
また、豐太郞の長男の尾澤良太郞も薬剤師である[5]。良太郞は千葉県の政治家である重城敬の長女と結婚し[6]、豐太郞の家督を継承した。良太郞は、合名会社である尾澤商店の代表に就くとともに、株式会社である東京医薬の社長に就任した。豐太郞の二男の尾澤豐明と三男の尾澤豐三郞は[4]、それぞれ分家している[6]。また、豐太郞の四男に尾澤豐四郎がいる[4]。豐太郞の長女の夫である尾澤洪は[5]、片岡義道の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をしたうえで[3]、のちに分家している[3][5]。洪もヘアカラーリング剤の製造に関する特許を持つなど[7][8]、医薬品や化粧品に関する事業に従事した。豐太郞の二女の夫である尾澤改作は[4]、根岸啓作の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をし[4]、のちに分家している。改作も薬剤師として薬局を経営した。
- 藤城三右衞門(義祖父) - 実業家
- 尾澤良輔(義祖父) - 実業家
- 尾澤良甫(岳父) - 実業家
- 尾澤良助(義弟) - 薬剤師
- 尾澤豐太郎(義養兄) - 薬剤師
- 舟岡省吾(養子) - 医学者
- 尾澤良太郞(義甥) - 薬剤師[5]
- 尾澤豐明(義甥) - 実業家[6]
- 尾澤豐三郞(義甥) - 実業家[6]
- 尾澤豐四郞(義甥) - 実業家
- 尾澤良靖(義甥) - 実業家
- 尾澤洪(義養甥) - 薬剤師[5]
- 尾澤改作(義養甥) - 薬剤師
系譜
[編集]舟岡周介 | 舟岡英之助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舟岡省吾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良甫の二女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤城三右衞門 | 尾澤良甫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良甫の長女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤良輔 | 良輔の娘 | 豐太郞の長女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤洪 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤良太郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良甫の二女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤改作 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐三郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐四郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤良助 | 尾澤良靖 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
[編集]- 1861年 - 武蔵国にて誕生。
- 1889年 - 帝国大学医科大学卒業。
- 1890年 - 舟岡家の家督を相続。
- 1899年 - 第三高等学校教授。
- 1921年 - 岡山医学専門学校校長事務取扱。
- 1922年 - 岡山医科大学医学部教授。
- 1922年 - 岡山医科大学附属医学専門部教授。
著作
[編集]単著
[編集]- 舟岡英之助著、佐々木政吉閲『新撰電気療法』訂補3版、蒼虬堂、1904年。
- 舟岡英之助著『新撰生理学』上巻、9版、吐鳳堂書店、1925年。
- 舟岡英之助著『新撰生理学』中巻、9版、吐鳳堂書店、1925年。
- 舟岡英之助著『新撰生理学』下巻、9版、吐鳳堂書店、1925年。
編纂
[編集]- 舟岡英之助編、佐々木政吉・榊俶閲『電気療法』舟岡英之助、1894年。
- 舟岡英之助纂著、佐々木政吉校閲『新撰電氣療法』南江堂書店、1898年、改正増補2版。
- 舟岡英之助纂著、佐々木政吉校閲『新撰電氣療法』改正増補3版、南江堂書店、1904年。
- 舟岡英之助編、佐々木政吉・榊俶閲『新撰電氣療法』改正増補4版、南江堂書店、1911年。
- 舟岡英之助纂著、佐々木政吉校閲『新撰電氣療法』改正増補第5版、南江堂書店、1917年。
- 舟岡英之助纂著、佐々木政吉校閲『新撰電氣療法』改正増補第6版、南江堂書店、1924年。
翻訳
[編集]- アドルフ・ストリュムペル原著、保利聯・舟岡英之助譯述『斯氏内科全書』巻1、松崎留吉・島村利助、1895年。
- アドルフ・ストリュムペル原著、保利聯・舟岡英之助譯述『斯氏内科全書』巻2、松崎留吉・島村利助。
- アドルフ・ストリュムペル原著、保利聯・舟岡英之助譯述『斯氏内科全書』巻3、松崎留吉・島村利助。
- アドルフ・ストリュムペル原著、保利聯・舟岡英之助譯述『斯氏内科全書』巻4、松崎留吉・島村利助、1897年。
- アドルフ・ストリュムペル原著、舟岡英之助譯述『斯氏内科全書』巻5、南江堂書店、1901年。
寄稿、分担執筆、等
[編集]- 礫川全次編『男色の民俗学』批評社、2003年。ISBN 4826503830
脚注
[編集]- ^ 『医譚』復刊第76号・通巻第93号、日本医史学会関西支部、2000年8月、p.17、小関恒雄「明治中期東京大学医学部卒業生動静一覧」
- ^ 『官報』第2965号「叙任及辞令」1922年6月21日。
- ^ a b c d e f g h 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を49頁。
- ^ a b c d e 內尾直二編輯『人事興信錄』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1915年、を28頁。
- ^ a b c d e f g h i 內尾直二・礒又四郞編輯『人事興信錄』2版、人事興信所、1908年、300頁。
- ^ a b c d 内尾直二編輯『人事興信録』6版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1921年、を35頁。
- ^ 特許番号23782号。
- ^ 橋本小百合・庵雅美編『発明に見る日本の生活文化史』化粧品シリーズ2巻、ネオテクノロジー、2015年、137頁。