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臼淵磐

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臼淵 磐
生誕 1923年8月22日
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府東京市青山
死没 (1945-04-07) 1945年4月7日(21歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 鹿児島県坊ノ岬
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1942 - 1945
最終階級 海軍少佐
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臼淵 磐(うすぶち いわお、1923年大正12年)8月22日 - 1945年昭和20年)4月7日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少佐

海兵71期太平洋戦争末期の天一号作戦坊ノ岬沖海戦)に参加して戦死。個人的に親交があり、同作戦に参加して生還した作家の吉田満(当時・海軍少尉)の著書『戦艦大和ノ最期』や、その列伝作品『臼淵大尉の場合――進歩への願い』で取り上げられたことによって、戦後、広く知られるようになった。

人物

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経歴

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1923年大正12年)8月22日、臼淵清忠・海軍機関中佐の長男として東京府東京市青山(現:東京都青山)に生まれる。翌年、妹・汎子が誕生。横須賀山崎小学校横浜一中を経て、1942年昭和17年)11月海軍兵学校71期)を卒業し、戦艦扶桑」、重巡洋艦鈴谷」乗組を経て、1943年(昭和18年)6月、海軍少尉任官海軍砲術学校普通科で学び、軽巡洋艦北上」砲術士を経て、1944年昭和19年)10月、戦艦「大和」副砲分隊長となった。同年11月、海軍大尉に昇進。

1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦坊ノ岬沖海戦)時、戦艦「大和」の哨戒長として乗艦。配置場所に近い、後部指揮所電探室に米軍の直撃弾が命中し即死する。享年21。妹の汎子は歌を詠み兄の死を悼んだ。戦死後、海軍少佐に進級。

エピソード

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文学青年

臼淵は小学校五年のときにはすでに海軍兵学校への進学の意欲を作文に綴っている。中学での担任は後に万葉学者文化功労者となる犬養孝で、犬養は臼淵の印象を「論旨整然とした作文を書くので文学者になるかと思っていた」と語っており、彼の優れた天資を窺うことができる。1939年(昭和14年)に海軍兵学校へ入校。兵学校時代は文武両道で「頭が涼しく、教官の話を素直に吸収する生徒」であった。軍人としての教育を受けながら、文人のセンスを併せ持つ青年士官へと成長する。

論理的な思考を持つ人物で、米国との戦争には否定的な見解を示していたと言われる。文学を好んだ彼らしく持ち歩いていたノートにはを書いたり、ハーモニカを吹くのを趣味にしていた。吉田満は著作のなかで、臼淵の「不足なるは訓練にあらずして、科学的研究の熱意と能力なり」との言葉を紹介している[1][2]

「敗れて目覚めよ」

天一号作戦出撃前の前日、最後の酒宴を行っていた海兵出身の若手士官と学徒出身の若手予備士官との間で、菊水作戦の意義に付いて激しく論争となった。「戦死する事は軍人としての誇りである」と主張する海兵出身者と「無駄死にである。死ぬ事の意義が解らない」と主張する学徒出身者との激論は激しく続き、あわや乱闘寸前となった所を治めたのが臼淵大尉であった。

「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚める事が最上の道だ 日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃあないか」(臼淵磐) — 『戦艦大和ノ最期』より抜粋(原文はカタカナ)

その言葉に一同は納得し、決意と覚悟を固めたという。

臼淵の発言は、吉田満の戦記『戦艦大和ノ最期』によって「菊水作戦に参加した兵士の心境を端的に表した言葉」として有名になり、後に「その時歴史が動いた」(NHK)など、多くの歴史番組やドキュメンタリー番組で取り上げられている一方、この作品が発表された直後から、生還した「大和」乗組員等から発言の信憑性に多くの疑問の声が挙がった。原作者と親交があった小野正文によると、「生き残った者が語る言葉より、作品を通して、戦友たちの“遺言”に直接耳を傾けてもらうことを望んでいた」との事であり、当時「大和」に乗り組んで戦死した有名・無名(あるいは作者自身)の若者の意見や気持ちを、作者と親交のあった臼淵大尉の口を通じて表現したかったのではないかと思われる。これらの理由により、現在では、臼淵による出撃前夜の発言は原作者の創作であった可能性が高いとされている[要出典]

臼淵磐を演じた人物

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 吉田満『戦艦大和』(角川文庫
  2. ^ 春秋 『日本経済新聞』 平成23年4月11日朝刊

関連文献

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