肝付良兼
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文4年(1535年) |
死没 | 元亀2年7月30日(1571年8月20日) |
改名 | (幼名)満壽丸[1]→良兼 |
別名 | 通称:三郎 |
戒名 | 才安恭俊[2]、才安泰俊[1] |
墓所 | 鹿児島県肝属郡肝付町の盛光寺[3] |
官位 | 左馬頭、河内守 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 肝付氏 |
父母 | 父:肝付兼続、母:島津忠良長女・御南 |
兄弟 | 禰寝重長正室、良兼、兼長?、兼樹、肝付刑部少輔室、頴娃兼有室、兼定、兼亮、兼則、兼護 |
妻 | 正室:高城(伊東義祐長女) |
子 | 伊地知重政室、満壽丸、肝付兼亮室(後、肝付兼護前室) |
肝付 良兼(きもつき よしかね)は、大隅国の戦国大名。肝付氏17代当主。
生涯
[編集]相州島津家当主で、島津家内の実力者であった島津忠良を烏帽子親として元服し偏諱を受け良兼と名乗る。天文22年(1553年)、父・肝付兼続の隠居に伴い当主となるが、実権は依然として父が握っていた。永禄9年(1566年)の父の死後、家中の権力を掌握すると永禄11年(1568年)に反攻に転じ、まず伊東氏と同盟し、飫肥を攻めて島津軍を撃退する。元亀2年(1571年)には伊地知重興の救援に向かい、島津軍を撃退した。しかし直後に病死した。享年37。
嫡男の満壽丸は夭折していたため、弟・兼亮が娘婿となり跡を継いだ[1]。
出典
[編集]- ^ a b c 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第10編之6』1938年、687-688,692頁。doi:10.11501/12212117 。
- ^ 『高山郷土誌』1966年、735頁。doi:10.11501/3031553 。
- ^ “肝付氏歴代の墓(昭和44年7月28日指定)”. 肝付町. 2025年1月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 『薩藩旧記雑録』
- 『新編伴姓肝属氏系譜』