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耶律有尚

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耶律 有尚(やりつ ゆうしょう、 太宗7年(1235年) - 延祐7年12月20日1321年1月18日))は、大元ウルスに仕えた官僚。字は伯強

概要

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耶律有尚はキタイ帝国(遼)初代皇帝耶律阿保機の長男の東丹王耶律突欲の十世の孫にあたり、初期モンゴル帝国の官僚として著名になった耶律楚材の次兄の耶律善才の孫で耶律鈞の子[1]。有尚は儒学者として著名な許衡に師事してその高弟となり、至元8年(1271年)に中書左丞を辞めて集賢大学士となると、モンゴル貴族の教育の手助けをした。至元10年(1273年)、許衡が一時辞任して郷里に帰るとその職を受け継ぎ、ついで秘書監丞となり薊州に赴いた[2]

その後、有尚が退去した後国学が廃れたとの意見があり、皇太子チンキムに呼び戻された。当初は学館がまだ建設されておらず、師弟は民家に間借りして学問を行ったが、至元24年(1287年)に学舎が建設されるとともに国子監も設置され、広く弟子が集められた[1]。有尚の働きによって儒風は広まったものの、至元27年(1290年)に親が年老いたことを理由に有尚は辞職した[3]

クビライが死去してオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、有尚は再び集賢学士に任じられた。大徳8年(1304年)、父の葬儀のため一時郷里に帰るも、再三の辞退にもかかわらず同職に復帰した。年老いてからようやく辞任を許されると朝廷から邸宅を賜り、延祐7年12月(1321年1月)に86歳にして亡くなった[1][4][5]

家族

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祖父

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  • 耶律鈞:元の東平路工匠長官

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  • 耶律楷:元の奉訓大夫、鄧州知州、生母・伯徳氏
  • 耶律朴:元の太常礼儀院奉礼郎、生母・伯徳氏
  • 耶律権:元の江南湖北道粛政廉訪司僉事、生母・伯徳氏
  • 耶律栝:元の陝西行省宣使、生母・不詳
  • 耶律検:元の将士佐郎、広源庫知事、生母・不詳

脚注

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  1. ^ a b c 徳永洋介 2007, p. 14
  2. ^ 『元史』巻174列伝61耶律有尚伝,「耶律有尚字伯強、遼東丹王十世孫。祖父在金世嘗官于東平、因家焉。有尚資識絶人、篤志于学、受業許衡之門、号称高第弟子。其学邃于性理、而尤以誠為本、儀容辞令、動中規矩、識与不識、莫不服其為有道之君子。至元八年、衡罷中書左丞、除集賢大学士、兼国子祭酒、以教国人之子弟、乃奏以門人十二人為斎長以伴読、有尚其一也。十年、衡告免還郷里、朝廷乃以有尚等為助教、嗣領其学事。居久之、拜監察御史、不赴。除秘書監丞、出知薊州、為政以寛簡得民情」
  3. ^ 『元史』巻174列伝61耶律有尚伝,「裕宗在東宮、召為詹事院長史。自有尚既去、而国学事頗廃、廷議以謂非有尚無足以継衡者、除国子司業。時学館未建、師弟子皆寓居民屋、有尚屡以為言、二十四年、朝廷乃大起学舎、始立国子監、立監官、而増広弟子員。於是有尚陞国子祭酒、儒風為之丕振。二十七年、以親老、辞職帰」
  4. ^ 『元史』巻174列伝61耶律有尚伝,「大徳改元、復召為国子祭酒。尋除集賢学士、兼其職。頃之、遷太常卿、又遷集賢学士。八年、葬父還郷里。已而朝廷思用老儒、以安車召之于家、累辞不允、復起為昭文館大学士、兼国子祭酒、階中奉大夫。有尚前後五居国学、其立教以義理為本、而省察必真切;以恭敬為先、而踐履必端愨。凡文詞之小技、綴緝彫刻、足以破裂聖人之大道者、皆屏黜之。是以諸生知趨正学、崇正道、以経術為尊、以躬行為務、悉為成徳達材之士。大抵其教法一遵衡之旧、而勤謹有加焉。身為学者師表者数十年、海内宗之、猶如昔之宗衡也。有尚既以年老、力請還家、朝廷復頒楮幣七千緡、即其家賜之。卒年八十六、賜諡文正」
  5. ^ 『滋渓文稿』に収録されている耶律有尚の神道碑銘によると85歳

参考文献

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  • 徳永洋介「元好問と耶律履の一族」『富山大学人文学部紀要』第47巻、富山大学人文学部、2007年8月、1-19頁、CRID 1390572174759553792doi:10.15099/00000128hdl:10110/1374ISSN 0386-5975 
  • 『元史』巻174列伝61耶律有尚伝