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翟文選

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
翟文選
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)
死去: 1950年4月23日
中華人民共和国北京市
出身地: 清の旗 吉林将軍管轄区阿勒楚喀副都統管轄区双城堡[1]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 翟文選
簡体字 翟文选
拼音 Zhái Wénxuǎn
ラテン字 Chai Wen-hsüan
和名表記: てき ぶんせん
発音転記: ジャイ ウェンシュエン
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翟 文選(てき ぶんせん)は中華民国の政治家。北京政府奉天派に属した。熙人

事跡

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1901年1902年光緒27年、28年)に、辛丑、壬寅併科挙人となる。以後、黒竜江将軍府全省文案処提調官、安達庁撫民通判、呼倫庁撫民同知を歴任した。

中華民国成立後の1913年民国2年)、黒竜江警察庁庁長に任命された。以後、張作霖率いる奉天派の一員となる。1917年(民国5年)、参議院議員に選出される。1920年(民国9年)9月、東三省塩運使に任ぜられた。1928年(民国17年)、東三省保安会委員となっている。

張作霖死後の同年7月、翟文選は張学良から奉天省長に任命された。同年12月の易幟を経て奉天省が遼寧省に改組され、翟がそのまま遼寧省政府主席に留任している。1929年(民国18年)1月、東北政務委員会委員と国民政府首都建設委員会委員も兼ねた。1930年(民国19年)1月に、省政府主席を辞任する。後に万国道徳総会理事となった。

満州事変勃発後、翟文選は関東軍から満州国参加を呼びかけられた。しかし、翟はこれを拒否して天津に隠居する。後に北平に移った。晩年は仏門に入り、邸内で修行していたとされる。

1950年4月23日、死去。享年73。

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  1. ^ 『双城県志』による。現在は黒竜江省に属するが清末は吉林将軍管轄。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、伊通県の人としている。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 『双城県志』 ハルビン地情網(ハルピン市人民政府地方志弁公室ホームページ)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
遼寧省政府主席
1928年12月 - 1930年1月
次代
臧式毅