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緒形仁平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

緒形 仁平(おがた にへい、1712年8月26日(正徳2年7月25日[1] - 1796年5月19日(寛政8年4月13日[1])は、日本の鉄山師。伯耆国黒坂の緒形家7代[1][2]は政直[1]。四郎兵衛と称する[1]

人物

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伯耆国黒坂(現・鳥取県日野郡日野町)の人。元文5年、宗旨庄屋、宝暦3年(1753年)、大庄屋となる[1]。宝暦4年(1754年)8月、300差出し、翌宝暦5年の藩邸上屋敷類焼に際して2000枚差上げ、米子城修復米積立法により米1800石を積立てるよう命ぜられた時は、そのうち400石を自分で拠出する[1]。さらに福田家からは、取替銀の利息として年々米20石を受ける[1]

殖産興業にも意を用い各地の開拓、水利の改良等に努力する[1]溝口町中祖はもと野上川と日野川筋との両川の中洲であって、荒蕪の地であったが、自ら巨費を投じて新たに堤防を築き、川筋を変更して多くの美田良圃を得る[1]

会見郡下河原村、福市村大字四日市、日野郡洲河崎村等にも緒形の開墾によってできた田地がある[1]。四日市新田は「緒形新田」の名を有し、付近日野川沿岸百数十間にわたって「緒形土手」の名が残っている[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日野町誌』186 - 187頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年1月12日閲覧。
  2. ^ a b 『日野郡史 下巻』1920頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年1月12日閲覧。

参考文献

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  • 日野郡史編纂委員編『日野郡史 下巻』日野郡自治協会、1926年。
  • 日野町誌編纂委員会編『日野町誌』日野町、1970年。

外部リンク

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