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総持寺 (西東京市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
総持寺

参道の様子
(2009年4月10日撮影)
所在地 東京都西東京市田無町
三丁目8番地12号
位置 北緯35度43分46.7秒 東経139度32分33.7秒 / 北緯35.729639度 東経139.542694度 / 35.729639; 139.542694座標: 北緯35度43分46.7秒 東経139度32分33.7秒 / 北緯35.729639度 東経139.542694度 / 35.729639; 139.542694
山号 田無山
宗旨 真言宗智山派三宝寺末寺
宗派 新義真言宗
本尊 不動明王
創建年 元和年間(1615-1624年)
開山 俊栄
正式名 田無山總持寺
別称 田無不動尊
札所等 関東三十六不動霊場 第10番
多摩八十八ヶ所霊場 第33番
文化財 尉殿大権現 神号額
総持寺のケヤキ
公式サイト 西東京市 Web
法人番号 2012705000370 ウィキデータを編集
総持寺の位置(東京都内)
総持寺
総持寺
総持寺 (東京都)
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総持寺(そうじじ)は、東京都西東京市田無町三丁目にある、真言宗智山派寺院山号田無山(たなしさん)。別名「田無不動尊」。

概要

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総持寺の創建年代は不詳だが、元和年間(1615 – 1624年)、法印権大僧都俊栄和尚が、谷戸に法界山西光寺[注釈 1]として創建、慶安年間(1648 - 1651年)、現在地へ移転したと伝えられている。江戸時代(1603 - 1868年)、尉殿権現社(現・田無神社)の別当寺を勤めていた。明治8年(1875年)、西光寺と近隣の密蔵院[注釈 2]観音寺の3寺が合併して創建し、田無山総持寺と改称した。

関東三十六不動霊場[2]の第10番札所に数えられ、多摩八十八ヶ所霊場[3]の第33番札所である。東京百景[4]にも選ばれている。

西光寺(現・総持寺)本堂は、天保11年(1840年)、築後140~150年を経たため、本堂建て替え計画が持ち上がり、西光寺の住職恵亮や田無村名主下田半兵衛が中心となり準備が進められた。嘉永3年(1850年)、本堂は完成し、普請成就供養が行われた。その落成を紀念して、境内にケヤキほか数種の樹木を植栽し、その中の一樹が境内にある大ケヤキであると言い伝えられている。

沿革

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  • 元和年間(1615-1624年) - 法印権大僧都俊栄和尚が、谷戸に法界山西光寺を創建。
  • 慶安年間(1648-1651年) - 現在地へ移転した。
  • 江戸時代(1603-1868年) - 尉殿権現社(現・田無神社)の別当寺を勤めていた。
  • 明治8年(1875年) - 西光寺と近隣の密蔵院、観音寺の3寺が合併して創建し、田無山総持寺と改称した。

伽藍

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  • 山門
  • 本堂
  • 妙見堂
  • 大日堂
  • 滝の不動尊
  • 寺務所

文化財

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尉殿大権現 神号額(じょうどのだいごんげん しんごうがく) - 西東京市指定文化財第27号、昭和63年9月指定
明治元年(1868年)、神仏分離令により、神社寺院から独立させた。明治5年(1872年)、西光寺は総持寺と改称し、西光寺の尉殿大権現社田無神社と改称した。その際、「権現」は仏の位という理由から、江戸時代に尉殿大権現社(現・田無神社)の拝殿に掲げられていたこの扁額は取り外され、同神社の別当寺にあたる西光寺(現・總持寺)が引き取った。
扁額の材質は欅で、縁は花頭曲線式、赤漆を塗装し、文字は金箔押しが施されている。揮毫者は「東都河保壽敬」と記されており、制作年代の記録はないが江戸後期(1851年)と推定できる。田無神社に尉殿大権現と号していた資料として貴重な扁額である[5]
総持寺のケヤキ - 西東京市指定文化財第33号、平成5年5月指定
ケヤキは田無地域における最大級の単幹樹木、市内の巨樹が減少している中で貴重な存在。天保13年(1842年)から嘉永3年(1850年)にかけて西光寺(現・總持寺)本堂の再建時、落慶を記念して植えた樹木の内の1本であると伝えられている[6]

交通

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鉄道

ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 新編武蔵風土記稿』、「西光寺 - 除地、高6石2斗9升4合。小名宿にあり。同宗、同末(真言宗新義、豊島郡石神井村龜頂山密乘院三寳寺末)、法界山大乗院と号す。本堂8間に5間半南向。本尊不動木の立像にて長2尺許。開山詳ならず。観音堂 - 本堂の左にあり。2間に3間半、観音は木の立像長1尺5寸許。」[1]
  2. ^ 『新編武蔵風土記稿』、「密蔵院 - 除地、高3石5斗5升。小名宿にあり。真言宗新義、豊島郡石神井村三宝寺の末。楽王山常楽寺と号す。本堂7間に6間南山、本尊薬師。木の坐像にて長8寸。開山詳ならず。弁天社 - 本堂に向て左の方にあり、小祠。地蔵堂 - 本堂に向て右の方にあり。堂2間四方、木の立像なる六地蔵を安置す。共に長1尺ばかりあり。」[1]

出典

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  1. ^ a b 新編武蔵風土記稿 田無村.
  2. ^ 関東三十六不動の案内 - 猫のあしあと 総持寺
  3. ^ 多摩八十八ヶ所霊場の案内 - 猫のあしあと 総持寺
  4. ^ 東京散歩・東京散策 東京100景・TOKYO100 - 田無山・総持寺
  5. ^ 東京都西東京市 保谷庁舎社会教育課 - 楽しむ・文化財、市指定第27号 尉殿大権現神号額
  6. ^ 東京都西東京市 保谷庁舎社会教育課 - 楽しむ・文化財、市指定第33号 總持寺のケヤキ

参考文献

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  • 間宮士信 等編、『新編武蔵風土記稿』、新編武蔵風土記稿刊行会 - 西光寺、観音堂
  • 間宮士信 等編、『新編武蔵風土記稿』、新編武蔵風土記稿刊行会 - 密蔵院、弁天社
  • 「田無村 密蔵院 西光寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ122多磨郡ノ34、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763995/12 

関連項目

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外部リンク

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