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細川晴之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

細川 晴之(ほそかわ はるゆき、天文17年〈1548年〉以降 - 永禄4年〈1561年〉または永禄5年〈1562年〉?)は、戦国時代の人物。細川京兆家当主・細川晴元の次男とされる[1]

生涯

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具体的な生誕年は不明。兄・昭元天文17年(1548年)生まれ[2]のため、それ以降となる。

天文21年(1552年)1月、六角義賢三好長慶と和睦し、近江にいた将軍足利義輝へと戻った[3]。これに伴い、六角義賢は自身のもとに預けられていた細川晴元の子・聡明丸(昭元)を三好方へと引き渡し、それと引き換えに長慶の子の千熊丸(三好義興)を引き取った[3]。この時、晴之も義賢に引き取られたとされる[1]

永禄4年(1561年)7月、六角義賢は河内畠山高政と結んで三好氏に対して兵を挙げ、京都東山将軍山城に入城した[4]。『細川両家記』には、この時義賢は「細川晴元入道殿の御次男」を取り立てるという理由で諸浪人を集めたとあり、この晴元次男が晴之とされている[4][注釈 1]

永禄4年(1561年)11月、京都の東の神楽岡にて六角勢と三好勢は衝突し、永原安芸守らが戦死した(将軍地蔵山の戦い[6]。これ以降、六角氏は小規模な戦いを繰り返しつつ京都を支配していたが、永禄5年(1562年)6月に教興寺の戦いで畠山氏が敗れると、三好氏と和睦して近江坂本に引き返した[7]軍記によっては、晴之はこの間に討死したとされている[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ なお、『細川両家記』には前述のように細川晴元の次男とあるだけで、「晴之」などの名の記載はない[5]

出典

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  1. ^ a b 村井 2019, p. 243.
  2. ^ 古野貢 著「細川信良―実権を失った京兆家最後の当主」、天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年、138頁。ISBN 978-4-86403-447-0 
  3. ^ a b 村井 2019, pp. 241–243.
  4. ^ a b 村井 2019, pp. 266–267.
  5. ^ 塙保己一 編「細川両家記」『群書類従 第拾参輯』経済雑誌社、1894年、630頁。全国書誌番号:20474265https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/320 
  6. ^ 村井 2019, pp. 267–268.
  7. ^ 村井 2019, pp. 269, 272.
  8. ^ 村井 2019, p. 272.

参考文献

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関連項目

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