細川晴之
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細川 晴之(ほそかわ はるゆき、天文17年〈1548年〉以降 - 永禄4年〈1561年〉または永禄5年〈1562年〉?)は、戦国時代の人物。細川京兆家当主・細川晴元の次男とされる[1]。
生涯
[編集]具体的な生誕年は不明。兄・昭元が天文17年(1548年)生まれ[2]のため、それ以降となる。
天文21年(1552年)1月、六角義賢が三好長慶と和睦し、近江にいた将軍・足利義輝が京へと戻った[3]。これに伴い、六角義賢は自身のもとに預けられていた細川晴元の子・聡明丸(昭元)を三好方へと引き渡し、それと引き換えに長慶の子の千熊丸(三好義興)を引き取った[3]。この時、晴之も義賢に引き取られたとされる[1]。
永禄4年(1561年)7月、六角義賢は河内の畠山高政と結んで三好氏に対して兵を挙げ、京都東山の将軍山城に入城した[4]。『細川両家記』には、この時義賢は「細川晴元入道殿の御次男」を取り立てるという理由で諸浪人を集めたとあり、この晴元次男が晴之とされている[4][注釈 1]。
永禄4年(1561年)11月、京都の東の神楽岡にて六角勢と三好勢は衝突し、永原安芸守らが戦死した(将軍地蔵山の戦い)[6]。これ以降、六角氏は小規模な戦いを繰り返しつつ京都を支配していたが、永禄5年(1562年)6月に教興寺の戦いで畠山氏が敗れると、三好氏と和睦して近江坂本に引き返した[7]。軍記によっては、晴之はこの間に討死したとされている[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 村井裕樹『六角定頼 ―武門の棟梁、天下を平定す―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年。ISBN 978-4-623-08639-9。