細川信之
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 |
受領名:伊予守 法名:常要 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 細川氏 |
細川 信之(ほそかわ のぶゆき)は、室町時代の武将。受領名は伊予守。
概要
[編集]享徳元年(1452年)閏8月15日に行われた琴弾八幡宮の放生会の記録である「琴弾八幡宮放生会祭式配役記」には「源伊予守信之」(法名常要)の奥書がある[1][2]。また、観音寺の寺記『弘化録』の享徳元年条には「三月廿一日当社鎮座七百五十年正当臨時祭礼、二月廿五日天満宮五百五十回、八月朔鐘楼再興成就上棟、大旦那源信之公、閏八月十五日放生会ノ記、領主伊予守信之法名常要記之、信之卿自筆ノ記今存在宝庫、正別當良賢トアリ」と記されている[3]。
『弘化録』にはほかに大永5年(1525年)に「源氏信」[4]、天文20年(1551年)に「細川伊予守氏頼」[5]、天正6年(1578年)に「細川伊予守氏政」[6]の記事があり、信之の子孫の系譜を辿ることができる[7]。神恵院の指定重要文化財「不動二童子像」の箱書には「御施主源伊予守信之、永享八年十二月六日」とある[8]。信之の墓所は観音寺市観音寺町字八幡町の興昌寺にある[9]。
この一族について、細川氏のうちどの系統に位置するのかについては詳らかでない。『観音寺市誌』は柞田荘地頭職を務めた細川和泉上守護家(細川頼有の系統)から同荘の代官として派遣された一族と推測する[7]。氏頼については、『弘化録』所収の細川系図には細川清氏の曾孫(清氏―昌氏―頼氏―氏頼)と記載されているが[10]、『観音寺市誌』は正平17年(1362年)に戦死した清氏と天文20年(1551年)に活動の見える氏頼の間に2代しかないのは無理があると指摘する[7]。
一方、溝渕利博によれば、信之は伊予守を称した細川繁氏の孫とも伝えられる[11]。『系図纂要』は繁氏の曾孫として信之を掲げる(繁氏―祐氏―信氏―信之)[12]。また室町幕府の外様衆には「細川観音寺」「細川伊予守」を名乗る家があったが、いずれにしても系譜関係は不明である[12][注釈 1]。
参考資料
[編集]- 香川県 編『香川叢書』 2巻、香川県、1941年。
- 香川県教育委員会 編『新編香川叢書』《史料篇(一)》新編香川叢書刊行企画委員会、1979年。
- 観音寺市誌増補改訂版編集委員会 編『観音寺市誌』《通史編 増補改訂版》観音寺市、1985年。
- 観音寺市誌増補改訂版編集委員会 編『観音寺市誌』《資料編 増補改訂版》観音寺市、1985年。
- 木下聡「室町幕府外様衆の基礎的研究」『東京大学日本史学研究室紀要』第15巻、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部日本史学研究室、1-38頁、2011年。
- 溝渕利博「中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(上)」『研究紀要』第79巻、高松大学・高松短期大学、1-31頁、2023年。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 香川県 1941, pp. 53–56.
- ^ 観音寺市誌増補改訂版編集委員会 1985b, pp. 68–69.
- ^ 香川県教育委員会 1979, p. 685.
- ^ 香川県教育委員会 1979, p. 695.
- ^ 香川県教育委員会 1979, pp. 700–701.
- ^ 香川県教育委員会 1979, p. 707.
- ^ a b c 観音寺市誌増補改訂版編集委員会 1985a, pp. 99–101.
- ^ 観音寺市誌増補改訂版編集委員会 1985b, p. 258.
- ^ 観音寺市誌増補改訂版編集委員会 1985b, p. 313.
- ^ 香川県教育委員会 1979, pp. 689–690.
- ^ 溝渕 2023, p. 17.
- ^ a b c 木下 2011, p. 21.
- ^ 木下 2011, p. 36.