糠塚貝塚
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糠塚貝塚(ぬかづかかいづか)は、宮城県登米市に所在する縄文時代前期~後期に属する貝塚である。
地理
[編集]糠塚貝塚は宮城県北部の伊豆沼と長沼の間の低い丘陵上に位置する内陸性主淡貝塚である。
調査研究
[編集]1954年には新田村史編纂委員会・東北大学教育教養部日本史研究室によって発掘調査が行われ、『登米郡新田村史』に公表された[1][2]。このときの調査では上下2層に細別され、特に上層資料は「糠塚式」と呼称され[3]、縄文中期の成立をめぐって「糠塚論争」が繰り広げられた。また、糠塚貝塚出土の縄文前期~中期土偶の型式学的検討[4]が行われたことで知られる。
1964年春には1954年調査の隣接地で「麦畑の深耕の際、貝殻の露出」があり、土器が出土した[5]。8月には発掘調査を行い、上層の貝層からは「五領ヶ台式や下小野式のモチーフのあるものがあって広義の大木7式」[6]、下層からは大木5式、最下層からは大木2a、b式、3式土器の破片が出土した。この後、遺跡はブルドーザーによって破壊されることになり、翌年春まで遺物は収集され、1976年には貝塚の東側半分のうち外側三分の一が失われた[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 後藤勝彦「登米郡長沼附近の貝塚群について」『登米郡北方村 : 東北における水田単作農村の歴史』1953年。
- 加藤孝「宮城県登米郡新田村糠塚貝塚について」『登米郡新田村史』新田村史編纂委員会、1955年。
- 加藤孝「宮城県登米郡新田村糠塚貝塚について」『地域社会研究会資料』6 東北大学地域社会研究会、1956年。
- 伊東信雄「古代史」『宮城県史』1957年。
- 興野義一「迫川流域の石器時代文化」『仙台郷土研究』18-3 仙台郷土研究会、1958年。
- 林謙作「縄文文化の発展と地域性-東北」『日本の考古学Ⅱ』河出書房新社、1965年。
- 興野義一「宮城県糠塚貝塚の吟味(1)」『歴史』35 東北史学会、1967年。
- 興野義一「大木式土器理解のために(Ⅰ)~(Ⅵ)」『考古学ジャーナル』ニュー・サイエンス社、1967~70。
- 興野義一「大木式土器における関東・中部的要素について」『日本考古学協会昭和43年度大会研究発表要旨』1968年。
- 小笠原好彦「東北地方南部における前期末から中期初頭の縄文式土器 −昭和 38年発掘宮城県大木囲貝塚出土土器の内容と糠塚貝塚出土土器の占める位置−」『仙台湾周辺の考古学的研究』宮城教育大学歴史研究会、1968年。
- 興野義一「宮城県登米郡糠塚貝塚」『日本考古学年報』17 日本考古学協会、1969年。
- 興野義一「糠塚貝塚について」『迫町史』1981a。
- 興野義一「糠塚貝塚」『宮城県史』34 史料集Ⅴ考古資料、1981b。
- 興野義一「大木式土器について」『宮城の研究』1 清文堂、1984年。
- 興野義一「山内清男先生供与の大木式土器写真セットについて」『画竜点睛』山内淸男先生没後25年記念論集刊行会、1996年。
- 興野義一「私の考古学遍歴」『宮城考古学』9 宮城県考古学会、2007年。
- 佐藤憲幸「興野コレクションの土偶-糠塚貝塚-」『東北歴史博物館研究紀要』(PDF)13 東北歴史博物館、2012年 。
- 興野春樹・恭子編『興野義一著作集』2013年。
- 相原淳一「宮城県登米市糠塚貝塚出土の北陸系土器」『興野義一著作集 時を語る』2013年。
- 相原淳一「宮城県登米市糠塚貝塚の縄文土器-興野義一コレクションの調査-」『東北歴史博物研究紀要』(PDF)16 東北歴史博物館、2015年 。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 興野先生の戦争体験と縄文研究 - ウェイバックマシン(2015年7月8日アーカイブ分)
座標: 北緯38度42分55.05秒 東経141度8分54.69秒 / 北緯38.7152917度 東経141.1485250度