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粟屋元相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
粟屋元相
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治2年(1556年
死没 寛永7年5月14日1630年6月24日
官位 豊後守肥前守
主君 毛利輝元秀就就隆
長州藩周防下松藩
氏族 清和源氏義光流粟屋氏
父母 父:粟屋就方
兄弟 元相五兵衛
蔵田豊後守の娘
木工允隆方元智就信隆良
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粟屋 元相(あわや もとすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の譜代家臣で、周防下松藩家老。父は粟屋就方

生涯

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弘治2年(1556年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋就方の長男として生まれる。

慶長8年(1603年)、前年に生まれた毛利就隆の傅役として付けられ、翌慶長9年(1604年)に御抱守側用人として就隆に付けられた奈古屋元忠福間元道榎本元信と共に家老となった。

慶長17年(1612年)に弟の五兵衛が病死したため、同年11月2日に三男の元智に五兵衛の家督と長門国厚東郡吉部郷の内の200石の地を相続させる。

元和3年(1617年4月28日に就隆への領地の打渡が行われて下松藩(後の徳山藩)が成立した際には、萩藩当職である井原元以から打渡坪付帳を受け取っている。同年7月9日には三男・元智が元相の307石の知行を相続することを毛利輝元秀就に認められた。

寛永7年(1630年5月14日に死去。享年75。嫡男の木工允に200石を分知していたが早くに病死しており、元相の下松藩での500石の知行は幼少の頃から就隆に仕えていた次男の隆方が相続した。

脚注

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参考文献

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