粟國安彦
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粟國 安彦(あぐに やすひこ、1941年2月6日 - 1990年1月14日)は、日本のオペラ演出家[1]。
経歴
[編集]東京声楽専門学校(昭和音楽大学の前身)を卒業し、藤原歌劇団に参加[3]、1969年5月の藤原歌劇団公演「ラ・ボエーム」で演出助手を務める[4]。その後1970年にイタリアへ渡り[5]、ローマの聖チェチーリア音楽院卒業後、日本人としては初めてローマ歌劇場の演出助手になった[1]。
1977年に帰国し[1]、以降、藤原歌劇団や二期会などのオペラを数多く演出し[3]、昭和音楽大学助教授も務めた[1]。1979年にジロー・オペラ賞、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞[6]。
晩年の粟國は癌を患っていたが、家族は本人に告知をしなかった。妻・悠子は、後に山内喜美子の取材に応じ、その間の経緯を語っている[7]。
おもな公演
[編集]- 民主音楽協会(民音)では、1983年『フィガロの結婚』[8]、1985年『蝶々夫人』[8]、1987年『チェネレントラ』[9]、1989年『スペードの女王』[10]、1990年『椿姫』[11]と、粟國の演出による公演を行なった[12]。
- 粟國が演出した1981年9月30日の東京室内歌劇場公演、ジョアキーノ・ロッシーニ作『イタリアのトルコ人』は、この作品の日本初演であった[13][14]。
- 粟國が演出し、藤原歌劇団と二期会が合同で公演を行なった、1985年8月のピエトロ・マスカーニ作『イリス』は、この作品の日本初演であった[15][16]。このとき指揮をした井上道義は、その後、2008年と2011年にもこの作品の演出と指揮をしている[16][17][18]。
エピソード
[編集]- オペラ演出家の岩田達宗は、粟國が最期にまともに話をした相手は自分であり、そのときは大した意味を込めてではなかっただろうが、「後をよろしく」という旨のことを言われたと語っている[19]。
- 2歳のときに粟國とともに渡伊した長男の粟國淳も、長じてオペラ演出家となっている[5][20]。
脚注
[編集]- ^ a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus『粟國安彦』 - コトバンク
- ^ “著名人・功労者”. 南大東村. 2014年7月17日閲覧。
- ^ a b 重田辰弥 (2011年9月28日). “「由井晶子先輩」“オペラ演出家・故粟國安彦をめぐり””. 重田辰弥. 2014年7月17日閲覧。
- ^ “粟國安彦”. 昭和音楽大学オペラ情報センター. 2020年3月17日閲覧。
- ^ a b 粟國淳; 香原斗志. “オペラを楽しむ 「愛」を伝える!”. 二期会. 2014年7月17日閲覧。
- ^ 20世紀日本人名事典
- ^ 山内喜美子『告知せず』文藝春秋、1991年8月30日。ISBN 978-4-16-345510-5 。2014年7月17日閲覧。
- ^ a b 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ “Independent production”. Min-On Concert Association. 2014年7月17日閲覧。
- ^ 水谷彰良. “イタリアのトルコ人 作品解説” (PDF). 日本ロッシーニ協会. p. 7. 2014年7月17日閲覧。
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ a b “井上道義指揮、ジャポニズム・オペラ《イリス》上演間近!”. KAJIMOTO/梶本音楽事務所 (2011年1月20日). 2014年7月17日閲覧。
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ “第4回 何でもどこかに繋がっている―1”. 京都芸術劇場. 2014年7月17日閲覧。
- ^ “新国立劇場で初演出/奇才・故粟國安彦氏の長男・淳氏”. 琉球新報. (2000年2月27日) 2014年7月17日閲覧。