粟国 (海防艦)
粟国 | |
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1947年3月、舞鶴に繋留中の海防艦群 (右から2番目の艦が粟国) | |
基本情報 | |
建造所 | 日本鋼管鶴見造船所 |
運用者 |
大日本帝国海軍 復員庁 |
艦種 |
海防艦 行動不能艦艇(復員庁) |
級名 |
占守型海防艦(1944年4月) 鵜来型海防艦(1944年6月) |
建造費 | 5,112,000円(予算成立時の価格)[注釈 1] |
艦歴 | |
計画 | マル急計画 |
起工 | 1944年2月15日 |
進水 | 1944年9月21日 |
竣工 | 1944年12月2日 |
最期 | 1948年5月20日解体終了 |
除籍 |
1945年11月30日(日本海軍) 1947年5月3日(復員庁) |
要目(計画時) | |
基準排水量 | 940トン |
全長 | 78.77m |
最大幅 | 9.10m |
吃水 | 3.06m |
主機 | 艦本式22号10型ディーゼル2基 |
推進 | 2軸 |
出力 | 4,200hp |
速力 | 19.5ノット |
燃料 | 重油 120トン |
航続距離 | 16ノットで5,000カイリ |
乗員 | 定員149名[注釈 2] |
兵装 |
45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基 25mm機銃 3連装2基 九四式爆雷投射機2基 三式爆雷投射機16基 爆雷120個 |
搭載艇 | 短艇3隻 |
レーダー | 22号電探1基 |
ソナー |
九三式水中聴音機1基 九三式水中探信儀1基 |
粟国[注釈 3](あぐに)は、日本海軍の海防艦。鵜来型海防艦の4番艦。1944年12月に竣工し、太平洋戦争を生き延びたものの、行動不能状態で終戦を迎え、1945年11月に除籍された。2015年現在確認可能な太平洋戦争の戦闘記録上において、アメリカ軍が使用した誘導爆弾が命中した唯一の日本艦とされる。艦名は、沖縄県の粟国島にちなむ。
起工までの経緯
[編集]マル急計画の海防艦甲型、第310号艦型の28番艦[注釈 4]、仮称艦名第337号艦として計画。1942年2月14日、海防艦乙型(基本計画番号E20)の基本計画の決定により第322号艦型に計画変更[注釈 5]。1943年7月5日、海防艦改乙型(基本計画番号E20b)の設計が完了したため、第310号艦型と第320号艦型の未起工艦のうち本艦を含む8隻は、基本計画番号E20bに従って建造されることになった。また、未起工艦8隻のうち日立造船に建造が割り当てられていた3隻は、用兵側から要望のあった掃海具を装備した通称「日振型」として建造されることになる。
艦歴
[編集]1944年2月15日、日本鋼管株式会社鶴見造船所で起工。4月5日、粟国と命名、占守型に分類されて同級の24番艦に定められ[注釈 6]、本籍を舞鶴鎮守府と仮定。6月5日、艦艇類別等級別表の改正で海防艦の部中に鵜来型が新設され、同級の4番艦に定められる。9月21日進水。12月2日竣工し、本籍を舞鶴鎮守府、役務を舞鶴鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、基礎術力練成教育に従事。
1945年1月17日、海上護衛総司令部第一護衛艦隊に編入。22日、モホ01船団(4隻)を第18号海防艦、新井埼と護衛し門司発。攻撃を受けることなく、2月2日香港着。香港到着後、新井埼が海南警備府作戦指揮下に編入されたため護衛から外れ、護衛に第9号海防艦が、船団に橋立丸(海軍配当船)がそれぞれ加わり、ホモ01船団として2月4日香港発。上海へ向け航行中の11日、橋立丸が触雷したため粟国は単艦でこれを護衛し、14日上海着。粟国はここで船団から離れて香港へ回航。20日、ホモ02船団(7隻)を第40号海防艦と護衛し香港発。
3月2日、六連着。ここで船団から離れ、3日明精丸(船舶運営会)を伴い六連着。4日、六連を発し吉林丸(船舶運営会)を6日まで護衛。その後泗礁山に回航。8日、ヒ96船団に合同するため泗礁山発。同船団に合流後泗礁山、薪智島、加徳水道を経由し、13日門司着。18日、AS3作戦(潜水艦撃滅作戦)参加のため門司発。巨文島で対馬、久賀と合流し、済州島東方で任務にあたる。
4月14日、モシ02船団護衛部隊の能美と第31号海防艦が飛揚島で被雷沈没したため、同島周辺海域で対潜掃蕩に従事。25日、第三十一海防隊に編入され、巨文島周辺海域で対潜掃蕩に従事。
5月27日、黄海の哨区で沖縄と行動中、PB4Y-2哨戒爆撃機の空襲を受け、右舷前部に誘導爆弾バットが命中した。艦橋よりも前の艦体が下方に折れ曲がり[注釈 7]航行に支障が出たため、稲木の救援を受け後進で鎮海に入港。その後修理のため釜山へ回航[注釈 8]。
終戦時は釜山で修理中だったが、艦首に板をつけて釜山を脱出し舞鶴に回航[注釈 8]。8月25日、舞鶴鎮守府第一予備海防艦に定められる。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍。
1947年(昭和22年)2月1日時点で、舞鶴で艦首切断、機関部品を他に転用した状態にあり、舞鶴地方復員局所管の行動不能艦艇(特)に定められる。戦後は修理されずに部品取りとして用いられ、八丈、久賀、第200号海防艦と繋がれ舞鶴港内に繋留されていた。
5月3日、行動不能艦艇(特)の定めを解かれ、1948年1月から5月20日にかけて飯野産業舞鶴造船所で解体された。
海防艦長
[編集]- 艤装員長
- 檜貝俊夫 大尉/少佐:1944年9月1日 - 1944年12月2日
- 海防艦長
- 檜貝俊夫 少佐:1944年12月2日 - 1945年9月30日[注釈 9]
注釈
[編集]- ^ これは第310号艦型の価格であり、基本計画番号E20bとしての価格ではない。
- ^ これは法令上の定員数であり、特修兵、その他臨時増置された人員を含まない。
- ^ 本来の艦名表記は粟國。以下、「粟国」の表記部について同じ。
- ^ マル急計画の当初計画での番数。
- ^ のち、基本計画番号E20は建造予定を繰り上げて第320号艦を第1艦とした。
- ^ この日時点で択捉型海防艦のうち除籍となった艦が2隻あるため、それら除籍艦を含めると通算で26番艦。
- ^ シーパワー 1989年8月号の記述による。丸スペシャル『海防艦』では、「艦首を失い」とある。
- ^ a b いずれもシーパワー 1989年8月号の記述による。丸スペシャル『海防艦』では、「8月7日 舞鶴に入港」、「舞鶴で修理中に終戦」とある。
- ^ 充員召集を解除されたことによる自動解職。
参考文献
[編集]- 海軍省
- 法令、令達
- 昭和18年10月30日付 内令第2241号。
- 昭和19年4月5日付 達第106号、内令第531号、内令第533号、内令員第545号。
- 昭和19年6月5日付 内令第738号。
- 昭和19年6月23日付 内令員第1082号。
- 昭和19年12月2日付 内令第1313号、内令員第2381号、内令員第2382号。
- 昭和20年4月25日付 内令第356号。
- 昭和20年8月25日付 内令第747号。
- 人事発令
- 昭和19年9月6日付 秘海軍辞令公報 甲 第1586号。
- 昭和19年12月8日付 秘海軍辞令公報 甲 第1663号。
- 昭和20年10月18日付 海軍辞令公報 甲 第1955号。
- 戦時日誌
- 呉防備戦隊戦時日誌。
- 第一護衛艦隊戦時日誌。
- 法令、令達
- 復員庁第二復員局
- 昭和22年2月1日付 二復総第49号 「行動不能艦艇保管実施要領ノ件通牒」。
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 月刊シーパワー No. 77 1989年8月号、株式会社シーパワー、1989年。
- 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
- 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
- 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
- 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
- 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。