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粒坐天照神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
粒坐天照神社

境内
所在地 兵庫県たつの市龍野町日山449-1
位置 北緯34度51分49.6秒 東経134度32分25.1秒 / 北緯34.863778度 東経134.540306度 / 34.863778; 134.540306座標: 北緯34度51分49.6秒 東経134度32分25.1秒 / 北緯34.863778度 東経134.540306度 / 34.863778; 134.540306
主祭神 天照国照彦火明神
社格 式内社名神大
県社
創建 (伝)推古天皇2年(594年
本殿の様式 流造
札所等 播磨三大社
例祭 10月体育の日の前日
地図
粒坐天照 神社の位置(兵庫県内)
粒坐天照 神社
粒坐天照
神社
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境内

粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)は兵庫県たつの市の日山(白鷺山)に鎮座する神社式内社 (名神大社) で、近代社格制度では旧県社に列した。伊和神社海神社とともに播磨三大社とされる。現在、鎮座する天神山が「龍が坐った形に似ている」ことからついた旧称の龍座神社として地域で広く親しまれている。

祭神

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天照国照彦火明神[1]を祀り、を神木とする。

由緒

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日山(白鷺山)山頂にて推古天皇2年(594年)の創祀と伝わる古社で、現在は中腹から山麓にかけてが社地となっている。社名の「粒(いいぼ)」は「揖保(いぼ)」の地名の語源とされる[2]。粒坐天照神社は平安時代は『延喜式神名帳』で名神大社とされていた。[3]

明治維新後に旧龍野藩礼儀指南役・関口久宣が、国家神道のもと龍野府(龍野県)の鎮守とするために、旧主で知藩事脇坂安斐の命によって神官に就き再興する。元兵庫県立姫路工業大学長振動工学の権威であった関口久美は維新後新社家の四代目当主で兼任神官。現在もその子孫・縁家によって連綿と存続されている。

明治7年(1874年郷社に列し、同15年に県社に昇格した。

氏子はたつの市龍野町のうちの揖保川右岸部(日山・龍野旧城下町一帯・北龍野)と同左岸部のうちの大道・富永・日飼・四箇、揖西町小神、揖保川町半田の3,300世帯。

年表

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  • 式内社・粒坐天照神社
推古天皇2年(594年) 的場山の山頂附近に勧請する
嘉祥4年(851年) 従五位下
貞観元年(859年) 従四位下
養和元年(1181年)に射楯兵主神社播磨国16郡174座の大小明神社を合祀し、播磨国総社・府中社とした際に粒坐天照神社はこれに合祀されておらず、この時点で社殿消失、祭祀が中断されていたものとされる[4]
  • 日山神社
前史不詳
応永の乱で羅災
嘉吉元年(1441年) 嘉吉の乱の兵火に羅災する
その後小神に遷座し、山中の旧社地に祠を建て天祇神社(現在の境外社・天津津祀神社)と称す
文明3年(1471年) 赤松則重が現社地である樋山(現・日山)に遷座する
文明5年(1473年) 焼失したため、小神の旧社地へ遷座して樋山の社地に菅原神社を勧請する
その後約100年の間、別当寺である樋山山下の大日山普光寺に仮偶する
天正9年(1581年) 蜂須賀正勝鶏籠山城の南西の裏鬼門の鎮守とするため、樋山の社地に龍座神社として再建し、小神の旧社地に祠を建て古宮神社(現在の境外社))とする
天正13年(1585年) 福島正則が社殿造営し、熊野権現品陀和気命天津児屋根命を祀り、龍座大神を境内末社に遷して、神仏習合により樋山三社大権現と改称
天正15年(1587年) 福島正則が転封に際して熊野権現を新任地へ遷座し、本殿正面に天照大神を祀る
慶長9年(1604年) 炎上焼失する
慶長17年(1602年) 社殿社記等悉く焼失する
寛永3年(1626年) 造営
明治2年(1869年) 国家神道のもと龍野府(龍野県)の鎮守とするため、知藩事脇坂安斐の命により、旧龍野藩礼儀指南役・関口久宣が神官に就任して再興し、以後、維新後新社家の関口氏及びその縁家により連綿と存続する
明治7年(1874年) 郷社
明治7年(1874年) 本殿に龍座大神を遷し日山神社と改称する
明治12年(1879年)日山神社を旧式内名神大社の粒坐天照神社と改称する
明治15年(1882年) 県社
明治44年(1911年)、神饌幣帛料供進社指定
昭和20年(1945年) 本社殿焼失する

縁起

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人皇第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の御代、播磨国現在のたつの市に伊福部連駁田彦という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った社があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、 「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり[5]、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。 すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」 と。 ここで使者の童児はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め入々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。

祭祀

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境内

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本殿
絵馬殿
  • 本殿
  • 拝殿
  • 絵馬殿
  • 神門
  • 奥宮 - 天津津祀神社、祭神は天照国照天彦火明命
  • 中宮 - 古宮神社、祭神は天照国照天彦火明命
  • 境内摂社
    • 菅原神社 - 文明年間に赤松則重が勧請
    • 天照神社 - 本殿より遷座した品陀和気命・天津児屋根命・天照大神が祭神
    • 瑜伽神社 - 文政年間に龍野町の町人・富井半兵衛が勧請
    • 稲荷神社 - 龍野町の町人・横山與兵衛が勧請
    • 厳島神社 - 龍野藩士・南木元泰が勧請
  • 境外摂社
    • 天津津祀神社 - 的場山中腹にある磐座
  • 関口久宣歌碑 - 明治25年(1892年)に神域を拡張したときに製作
  • 松尾芭蕉句碑 - 貞享5年(1688年)伊勢神宮に参拝したとき詠んだ句
  • 神力稲紀功之碑[6]

交通

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周辺

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脚注

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  1. ^ 『研云祭神当社ハ天照國照彦火明命トシ当社の西方ナル揖西村ニ鎮座セル井関三神社ノ祭神ヲ天照國照彦火明櫛玉饒速日命トス両神ハ別神ノ如ク見ユレドモ旧事本紀ニヨル饒速日命ヲ称スルニ井関三神社ノ祭神ノ如ク記セルヲ見ル』兵庫県神社誌。但し、アメノホアカリを祭神とする粒坐天照神社は一時期、本殿正面主祭神に天照大神(あまてらす-おおかみ)を祀り、また、明治期以降の国家神道体制の影響により社号を『~あまてらす-じんじゃ』としている。一方、ニギハヤヒを祭神とする井関三神社では旧社号・天照神社を『あまてる-じんじゃ』とし、また、祭神名を『あまてる-くにてる-ひこ~』として、天照(あまてらす)信仰とは異なるものとしている。但し、先代旧事本紀はアメノホアカリとニギハヤヒを同一神とみなす。
  2. ^ 但し、粒坐天照神社がこの説を採用し主張するようになったのは比較的近年のことであり、従来より中臣印達神社がこの説を有力視されてきた。中臣印達神社#粒丘伝説と式内粒坐天照神社を参照のこと。
  3. ^ 神祇志料」「播磨鑑」「播磨名所巡覧図会」「揖保郡地誌」『粒坐天照神社延喜式祭神々明宮伊勢村(播磨国風土記に記載の揖保郡林田里伊勢野/姫路市林田町上伊勢に鎮座する八幡神社)の地に在社跡大門等の跡在』として異説を主張する。
  4. ^ 播磨国内大小明神174座が記載された『播磨国内神名帳』には中臣印達神社が『中臣太神』と記載されており、粒坐天照神社と合祀されていたこと示唆しているとされる。
  5. ^ 的場山と同じ山系の北西に位置する亀山の井関三神社奥宮神社のこと
  6. ^ 西尾敏彦・藤巻宏著『日本水稲在来品種小事典-295品種と育成農家の記録-』一般社団法人農山漁村文化協会、2020年3月20日、47頁。 

参考文献

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  • 西尾敏彦・藤巻宏著『日本水稲在来品種小事典-295品種と育成農家の記録-』一般社団法人農山漁村文化協会、2020年3月。

関連項目

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外部リンク

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