籾井城
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籾井城 (兵庫県) | |
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別名 | 安田城、福住城、福住古城 |
城郭構造 | 山城 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 籾井氏 |
廃城年 | 天正5年(1577年) |
遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀、堀切、虎口、竪堀[1] |
位置 | 北緯35度4分36.2秒 東経135度20分37秒 / 北緯35.076722度 東経135.34361度座標: 北緯35度4分36.2秒 東経135度20分37秒 / 北緯35.076722度 東経135.34361度 |
地図 |
籾井城(もみいじょう)は、丹波国多紀郡東部(現在の兵庫県丹波篠山市福住)にあった日本の城(山城)。安田城[2][3]、福住城[3]、福住古城[4]とも呼ばれる。
概要[編集]
多紀郡籾井荘を支配した国人・籾井氏の居城で[1]、東には京都に向かう京街道、南には摂津に向かう摂津街道があり、それらが交差する要衝に位置した[5]。標高390m、比高140mの山上に立地し、東・西・南方向への展望に優れている[5]。
天正5年(1577年)10月、多紀郡の入口にあたる籾井城は、丹波攻略を狙う織田信長の家臣・明智光秀によって攻められ[6]、同年11月には落城した[7][8]。
落城時の城主は『丹波志』では籾井春重、『籾井家系譜』[9]では籾井綱重とされる[1][注釈 1]。綱重は籾井城の東に位置する安口(はだかす)城を隠居城として次男・綱正とともにそこに入城しており[11][注釈 2]、籾井城は綱重の嫡男・綱利が守ったが、籾井城落城の際に綱利は自刃したという[2]。また、明智光秀書状によるとこの時光秀が落城させたのは「籾井両城」であり[7]、籾井城と安口城を指すとみられる[13]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c 高橋 2019, p. 86.
- ^ a b 奥田 1958, pp. 57–59.
- ^ a b “籾井城跡(福住)”. 兵庫県丹波篠山市ホームページ. 丹波ささやま五十三次. 丹波篠山市. 2020年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日閲覧。
- ^ 高橋 2000, p. 297.
- ^ a b 高橋 2000, p. 297; 高橋 2019, p. 86.
- ^ 『兼見卿記』天正5年10月29日条。
- ^ a b (天正5年)11月17日付明智光秀書状(「熊本三宅文書」、藤田達生・福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史』(八木書店、2015年、79頁)所収)。
- ^ 高橋 2019, p. 76.
- ^ 丹波篠山市中央図書館所蔵。
- ^ 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年、778頁。ISBN 4-404-01752-9。
- ^ 奥田 1958, pp. 57–59; 高橋 2019, p. 88.
- ^ 高橋 2019, p. 88.
- ^ 高橋 2019, pp. 76, 89.
参考文献[編集]
- 奥田楽々斎『多紀郷土史考 下巻』多紀郷土史考刊行会、1958年。
- 高橋成計 著「城郭データ」、八上城研究会 編『戦国・織豊期城郭論 丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』和泉書院〈日本史研究叢刊12〉、2000年。ISBN 4-87088-996-X。
- 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ13〉、2019年。ISBN 978-4-86403-329-9。