米村弘
米村弘 | |
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生誕 |
生年不明 日本 不明 |
死没 | 1953年1月11日 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 |
軍歴 | ? - 1945(日本陸軍) |
米村 弘(よねむら ひろし、生年不明 - 1953年1月11日)は、日本の軍人、スパイ。
太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ハリマオ工作に従事。
経歴
[編集]陸軍中野学校で訓練を受ける。1941年時点の階級は少尉。同年10月に藤原少佐の傘下でF機関(藤原機関)の工作員となる。タイ潜伏後、タイランド・ホテルのボーイに変装する[1][2]。
太平洋戦争が開戦すると、マレー半島のシンゴラで待機し、上陸する日本軍に合流した[3]。米村は神本利男と共に、インド独立連盟宣伝班を連れてバタニ=べトン街道に進軍中の安藤支隊と合流、宣撫工作を行う。また、英印軍内のインド兵を対象に離反工作を展開し、多数の投降者を日本側に引き入れる活動をしていた。土持則正大尉、中宮悟郎中尉、国塚一乗少尉とともにインド兵捕虜に教育を行い、寝返り工作に活用させた。更にハリマオとして名をはせていた盗賊、谷豊と合流しカンパルの英軍基地の後方で攪乱工作に従事。ペラク川上流の大ダムの爆薬撤去に貢献する[4]。谷が重病になると、米村は藤原を紹介し、丁度正午ということもあり、皆でカレーライスを食べた。谷はマラリアに冒されながらもマレー義勇軍の解散や列車転覆、敵情報告などで活躍。米村と神本は谷に懸命の看護をするも病状は悪化、シンガポール陥落後の1942年3月17日、病死した。
英軍降伏後、米村は中宮中尉と共5万余りのインド兵捕虜を収容可能な施設を調査し、接収式の会場をファラーパークに選定した。そして藤原、モーハン・シン、プリタム・シンによるインド国民軍健軍の演説を行い、捕虜たちにインド解放の支援を促した[5]。1942年末、中尉に昇進した米村は印緬工作のためアキャブ出張所に配属、インド内潜入工作員の援助、英印軍内のインド兵の切り崩し工作を行った。1944年、光機関員となった米村はインパール作戦時の工作に従事した[6]。終戦時の階級は大尉[7]。戦後は三木刃物に就職。1953年1月11日、台湾にて事故死したとされる[8]。F機関通訳の石川義吉によると、米村の最期は自殺とされる。背景は不明[9]。