米坂線雪崩直撃事故
表示
米坂線雪崩直撃事故 | |
---|---|
事故から8年後の1948年に空撮された現場の鉄橋 | |
発生日 | 1940年3月5日 |
発生時刻 | 8時45分ごろ |
国 | 日本 |
場所 | 山形県西置賜郡小国本村(現・小国町) |
座標 | 北緯38度4分32秒 東経139度42分22秒 / 北緯38.07556度 東経139.70611度座標: 北緯38度4分32秒 東経139度42分22秒 / 北緯38.07556度 東経139.70611度 |
路線 | 米坂線 |
運行者 | 日本国有鉄道 |
事故種類 | 脱線転落事故 |
原因 | 雪崩による橋梁崩壊 |
統計 | |
列車数 | 1 |
乗客数 | 130 |
死者 | 15 |
負傷者 | 30 |
米坂線雪崩直撃事故(よねさかせんなだれちょくげきじこ)は、1940年(昭和15年)3月5日に、山形県西置賜郡小国本村(現・小国町)の米坂線上で発生した鉄道事故である。
解説
[編集]1940年3月5日8時45分ごろ、当時米坂線の小国駅 - 越後金丸駅間にあった玉川口駅近くの小国駅側で荒川に架かる第四荒川橋梁が、雪崩の直撃を受けて崩壊した[1]。その直後、8620形蒸気機関車48639号機が牽引する客車3両・貨車2両の米沢発坂町行き下り103混合列車が崩壊した橋梁にさしかかり、最後尾の客車1両を残して荒川に転落した[2]。
事故直後、転落を免れた最後尾車両に乗っていた乗客のひとりが、付近の踏切監視小屋に駆け込んで事故の一報を伝えた[3]。連絡を受けた玉川口駅長や同駅の除雪人夫が現地に駆けつけて救助活動を始めたが、その直後、貨車の硫黄合剤と思われる積荷が3度にわたり爆発し、貨車の上に折り重なっていた客車に延焼して被害を拡大させた。収容された遺体は男女の性別すら判別できない者もあった[4]。
客車には130人が乗っていたが、この事故で15人が死亡、30人が負傷した[3]。雪崩対策が不十分であった可能性が指摘されている[5]。
雪崩が発生したタイミングは諸説あり、後部2 - 3両目付近がトンネルから出たタイミングで雪崩が襲ったため、最後部の車両が反動によってトンネル内で逆立ち状態になり、連結器が破断して転落せずに済んだとする見解もある[6]。
事故後、現場には殉難碑が建てられ、JR東日本のOBら関係者が整備を行っている[1]。
脚注
[編集]- ^ a b “JR米坂線 全線復旧に向けて” (pdf). 広報おぐに 令和6年8月号. 小国町. p. 6 (2024年8月1日). 2024年12月8日閲覧。
- ^ 丸山久一 1977, pp. 150–156.
- ^ a b “米坂線雪崩直撃事故(1940年3月5日)”. Yahoo!天気・災害. Yahoo! Japan. 2021年3月7日閲覧。
- ^ 「救援現場に雪崩続く」『東京日日新聞』(昭和15年3月7日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p758 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 佐々木 & 網谷 1993, pp. 209–227.
- ^ 「事故は不可抗力」『山形新聞』(昭和15年3月8日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p758 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
参考文献
[編集]- 丸山久一「写真で見る雪崩による鉄道事故について」『雪氷』第39巻第3号、日本雪氷学会、1977年、150-156頁、doi:10.5331/seppyo.39.150、NAID 130000906947。
- 佐々木冨泰、網谷りょういち『事故の鉄道史―疑問への挑戦』日本経済評論社、1993年。ISBN 978-4-8188-0662-7。
- 佐々木冨泰、網谷りょういち『続・事故の鉄道史』日本経済評論社、1995年。ISBN 978-4-8188-0819-5。