コンテンツにスキップ

篠田鐐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

篠田 鐐(しのだ りょう、1894年明治27年)1月25日[1][2] - 1979年昭和54年)5月8日[1][2])は、日本の陸軍軍人実業家。最終階級は陸軍中将工学博士

経歴

[編集]

愛知県出身[1][2][3]。陸軍少将・工学博士、篠田金の長男として生まれる[1]東京陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業[1][2][4]。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第1連隊付となる[1][4]。1917年(大正6年)11月、陸軍砲工学校高等科(23期)を卒業した[1]。陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部応用科学科で学び、1922年(大正11年)3月に卒業した[3][5]。さらに同大学院で学び、1925年(大正14年)3月に修了した[1]

1925年5月、陸軍科学研究所員に発令[1]。同第2部研究室主任を経て、1929年(昭和4年)11月から1932年(昭和7年)1月まで、イギリス駐在としてロンドン大学で学んだ[1]。1932年1月、科学研究所員兼参謀本部付となる[1][3]。1934年(昭和9年)3月26日、東京帝大から工学博士号を授与された[1][6]。1938年(昭和13年)3月、工兵大佐に昇進[1][3]

1941年(昭和16年)6月、陸軍技術本部第9研究所長に就任し、同年8月、陸軍少将に昇進[1][2][3]。1942年(昭和17年)10月、第9陸軍技術研究所長(登戸研究所)となる[1][2][3]。1943年(昭和18年)4月、陸軍技術有功章を受章[1]。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進級し[2][3]、同年12月、予備役に編入された[1]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

戦後、1949年(昭和24年)6月、巴川製紙所取締役に就任し、以後、常務、専務、社長を歴任した[1]。1962年(昭和37年)繊維学会会長[8]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、79頁。
  2. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』367頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』355頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』348、355頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。79、613頁。
  6. ^ 『官報』第2170号、昭和9年3月29日。
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。
  8. ^ 「歴代会長」繊維学会

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
先代
白樫侃
繊維学会会長
1962年 - 1964年
次代
関戸実