第31SS義勇擲弾兵師団
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第31SS義勇擲弾兵師団 31. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division | |
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師団章 | |
創設 | 1944年10月 |
廃止 | 1945年5月 |
所属政体 | ナチス・ドイツ |
所属組織 | 武装親衛隊 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵科 | 擲弾兵 |
人員 | 11,000人 |
通称号/略称 | ベーメン・メーレン(Böhmen und Mähren) |
上級単位 | 中央軍集団 |
担当地域 | 東部戦線(独ソ戦) |
戦歴 | 第二次世界大戦 |
特記事項 | 民族ドイツ人を基幹に編成 |
第31SS義勇擲弾兵師団(独: 31. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division)は武装親衛隊の師団である。
1944年9月に旧チェコ=スロバキア在住のドイツ人とハンガリー系の民族ドイツ人で編制を開始した。11月までに師団はオーストリアへ移動し、1945年式師団編成[1]で編制を完結した上で1945年1月よりハンガリー戦線で作戦に従事した。
その後シレジアまで後退し第17軍に所属したが、ソビエト赤軍に包囲されたため、1945年5月、ケーニヒグレーツで降伏した。[2]
編成
[編集]この師団の編成は1944年10月に決定された。12月初めには1万1000人ほどの義勇兵が訓練を始めていたが、その多くは、チェコもしくはスロバキアからやってきた民族ドイツ人であった。[3]師団は一般市民の志願兵の一群が、解隊された第23SS武装擲弾兵師団「カマ」(クロアチア第2)の居残り組と合流し、警察連隊ブリクセンによって補充されたことによって強化された。[3]
戦歴
[編集]この師団の練兵場があったハンガリーは当時独ソ戦の最前線であり、必然的にこの師団も赤軍と交戦することとなった。しかし練兵場周辺で短い戦闘を経験しただけで、直ちにドイツに召還された。マールブルクで完全編成に仕立て上げるためだったが、1945年1月、師団格としてははるかに縮小された「タイプ45」の編成に組み込まれることになり、2月、一般補充部隊として、中央軍集団の指揮下に入った。終戦間際、同師団戦闘集団はケーニヒグレーツ周辺の作戦行動に参加し、残存兵は赤軍に投降した。[3]
その他
[編集]師団の名称に関しては、「ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)」と呼ばれていたとする資料もある。[3]
戦力組成
[編集]- 第78SS義勇擲弾兵連隊(SS-Freiwilligen-Grenadier-Regiment 78)
- 第79SS義勇擲弾兵連隊(SS-Freiwilligen-Grenadier-Regiment 79)
- 第80SS義勇擲弾兵連隊(SS-Freiwilligen-Grenadier-Regiment 80)
- 第31SS偵察大隊(SS-Freiwilligen-Füsilier-Bataillon 31)
- 第31SS義勇砲兵連隊(SS-Freiwilligen-Artillerie-Regiment 31)
- 第31SS義勇野戦補充大隊(SS-Freiwilligen-Feldersatz-Bataillon 31)
- 第31SS義勇対戦車猟兵大隊(SS-Freiwilligen-Panzerjäger-Abteilung 31)
- 第31SS義勇工兵大隊(SS-Freiwilligen-Pionier-Bataillon 31)
- 第31SS義勇通信大隊(SS-Freiwilligen-Nachrichten-Abteilung 31)
- 第31SS師団補給小隊(Kommandeur der SS-Divisions-Nachschubtruppen 31)
師団長
[編集]着任 | 離任 | 階級(当時) | 氏名 |
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1944年10月1日 | 1945年4月 | 親衛隊少将 | グスタフ・ロンバルト Gustav Lombard |
1945年4月 | 1945年5月8日 | 親衛隊少将 | ウィルヘルム・トラバント en:Wilhelm Trabandt |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- SS:HITLER`S FOREIGN DIVISIONS 著クリス・ビショップ 訳中村安子/鈴木晃