第12軍 (ロシア内戦)
第12軍 12-я армия | |
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活動期間 |
1918年10月3日 - 1919年3月13日 1919年6月6日 - 1920年12月25日 |
国籍 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 |
軍種 | 赤軍 |
上級部隊 |
南部戦線 カスピ・カフカース戦線 西部戦線 南西戦線 ウクライナ・クリミア軍 |
主な戦歴 |
ロシア内戦 ポーランド・ソビエト戦争 ウクライナ・ソビエト戦争 |
勲章 | 名誉革命赤旗 |
第12軍(だい12ぐん、ロシア語: 12-я армия)は、ロシア内戦中の1918年から1920年にかけて、赤軍に二度形成されていた編制。
初代第12軍
[編集]1918年9月11日付共和国革命軍事会議指令に基づく同年10月3日の南部戦線革命軍事会議指令により、アストラハンおよび北カフカース東部に形成された。当初の軍はアストラハン歩兵師団(後に第33狙撃師団)の一部であり、翌1919年2月13日には北カフカースからの第11軍も含んだ[1]。その所属は当初の南部戦線から1918年11月3日には同戦線カスピ・カフカース部門、12月8日にはカスピ・カフカース戦線となり、1919年3月13日を以て解散した[1][2]。
戦歴としては、南西アストラハン要塞地区に展開してラーザリ・ビチェラホフ (ru) の軍と戦い、12月1日にはグデルメス=ペトロフスク間およびキズリャル=チェルヴリョーンナヤ間の鉄道を奪取しようと試みるも、兵力不足と発疹チフスの蔓延により失敗。2月下旬には北カフカースからドンバスへ移動しようとするアントーン・デニーキンの軍を押し止めようとするも、これも失敗した[1][2]。
構成
[編集]司令官[1]
- アレクセイ・アフトノモフ(1918年10月3日 - 11月15日、任命されたが着任せず)
- V・L・ステパノフ(1918年10月3日 - 1919年2月14日)
- ニコライ・ジダーノフ(ru, 1919年2月14日 - 3月13日)
参謀長[1]
- D・A・セヴェリン(1918年10月3日 - 1919年3月13日)
革命軍事会議メンバー[1]
- N・A・アニシモフ(1918年11月15日 - 1919年2月19日)
- N・M・クズネツォフ(1918年11月15日 - 1919年3月3日)
- G・P・アントーノフ(1918年11月15日 - 1919年3月3日)
- サアク・テル=ガブリエリャン(1919年1月22日 - 3月3日)
- ヤン・ポルヤン(1919年2月 - 3月)[3]
- A・N・パジェリン(1919年2月6日 - 3月11日)
- セルゲイ・メドヴェージェフ(ru, 1919年3月3日 - 13日)
第2代第12軍
[編集]1919年6月4日付共和国革命軍事会議指令に基づき、同月6日に第1 (ru) および第3ウクライナ・ソビエト軍 (ru) から編制された。その所属は当初の西部戦線 (ru) から7月27日に指令部付、9月7日から西部戦線、10月17日から南部戦線、翌1920年1月10日から南西戦線、同年8月14日から西部戦線、9月27日から南西戦線と変遷した。12月3日の共和国革命軍事会議議長令2660/532によってウクライナ・クリミア軍が南部戦線に形成されると、第12軍は南西戦線からウクライナ・クリミア軍へ移管され[4]、その後12月25日を以て第12軍は解散した[1][2]。
戦歴
[編集]1919年6月にはウクライナ南西部で防戦し、ポーランド第二共和国軍、ウクライナ人民共和国軍、そして南ロシア軍からヘルソン、ニコラーエフ、オデッサ、チラスポリ、ヤンポリ、カーメネツ・ポドリスク、ヴォロチスク、ルーツク、サールヌィを得た。7月から8月にはデニーキン軍が、ヘルソン、ポルタヴァ、エカテリノスラフを占拠していた第12軍の主力を分断するため、オデッサとニコラーエフへの攻撃を開始した。これによって8月14日にはイオナ・ヤキール隷下(第45・第58狙撃師団)に第12軍の南部支隊が形成されたが、9月19日に支隊は400キロメートルの撤退戦を経てジトーミルの本隊へ合流した。9月から10月には第12軍はキエフ北部でドニエプル川両岸を防衛した。11月から第12軍は攻勢に転じ、同月にチェルニゴフ、12月にキエフ、翌1920年1月にヴィーンニツァ、ベーラヤ・ツェルコフィ南部、ズナメンカ、ピャチハトカに達した[1][2]。
その後、第12軍はポーランド・ソビエト戦争に参加するためキエフ、ドニエプルを離れ、4月から5月にかけてモズィリ、オーヴルチ、コーロステニ、ベロコローヴィチで戦った。南西戦線指揮下において5月26日から6月17日までキエフ市街、ドニエプル、コーロステニで (ru)、6月28日から7月11日までロヴノ地域で戦ってサールヌィを占領し (ru)、7月23日から8月20日まではストィル・ストホード両川、コーヴェリ、ヘルムなどリヴォフ地域で戦った (ru)。結果軍は大きな損害を負い、8月から9月は東へ退却した。11月にはシモン・ペトリューラおよびスタニスラウ・ブラーク=バラホーヴィチの軍と戦い、名誉革命赤旗 (ru) を授与された[1][2]。
構成
[編集]司令官[1]
- ニコライ・セミョーノフ(ru, 1918年6月16日 - 9月8日)
- セルゲイ・メジェニコフ(ru, 1919年9月10日 - 1920年6月10日)
- ガスパル・ヴォスカノフ(ru, 1920年6月10日 - 8月20日)
- ニコライ・クジミン(ru, 1920年8月20日 - 10月26日、暫定)
- ニコライ・リソフスキー(1920年10月26日 - 12月25日)
革命軍事会議メンバー[1]
- セミョーン・アラロフ(1919年6月16日 - 1920年12月1日)
- A・Ya・セマシコ(1919年6月16日 - 9月12日)
- アレクサンドル・サフォーノフ(ru, 1919年8月22日 - 9月13日)
- コンスタンチン・アフクセンチエフスキー(1919年8月13日 - 22日)
- ニコライ・ムラロフ(1919年9月8日 - 1920年7月13日)
- セラフィモフ(1920年2月18日 - 5月17日)
- ウラジーミル・ザトンスキー(1919年6月27日 - 1920年5月17日)
- ヴィタリー・コシオール(1920年8月27日 - 10月12日)
- アレクサンドル・シュムスキー(ru, 1920年10月12日 - 12月11日)
- ピョートル・トカルン(1920年11月27日 - 12月18日)
参謀長[1]
- ガヴリール・クトゥイレフ(ru, 1919年6月16日 - 10月2日)
- V・K・セダチェフ(1919年10月2日 - 1920年10月13日)
- M・V・モルコチャノフ(1920年10月13日 - 17日)
- V・D・ラトゥイニン(1920年10月17日 - 11月17日)
- I・D・モジェノフ(1920年11月17日 - 12月25日)
部隊[1]
- 第1ウクライナ・ソビエト師団(1919年6月 - 8月15日)
- 第7狙撃師団(ru, 1920年3月 - 12月)
- 第24狙撃師団(1920年6月)
- 第25狙撃師団(1920年5月 - 12月)
- 第44狙撃師団(1919年6月 - 1920年4月、6月 - 12月)
- 第45狙撃師団(1919年6月 - 10月、1920年3月 - 4月)
- 第46狙撃師団(1919年6月 - 7月)
- 第47狙撃師団(1919年9月 - 1920年4月)
- 第57狙撃師団(1920年2月 - 3月)
- 第58狙撃師団(1919年8月 - 1920年8月、9月 - 11月)
- 第60狙撃師団(1919年8月 - 1920年2月)
- 共和国国内保安軍独立狙撃師団(1920年11月 - 12月)
- 第9騎兵師団(ru, 1919年6月 - 10月)
- 第17騎兵師団(ru, 1920年2月 - 5月)
- 第2次第17騎兵師団(1920年10月)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m М. : Гражданская война и военная интервенция в СССР: Энциклопедия. — (Советская энциклопедия / гл. ред. С. С. Хромов ; 1983).
- ^ a b c d e Центральный государственный архив Советской армии. Vol. 1 в 2 томах. Minneapolis, Minnesota: East View Publications. Л. В. Двойных, Т. Ф Каряева, М. В. Стеганцев. 1991. ISBN 1-879944-02-2。
- ^ “Полуян Ян Васильевич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2019年11月18日閲覧。
- ^ Краснознаменный Киевский: Очерк истории Краснознаменного Киевского военного округа (1919-1979) (2-е изд., испр. и доп. 75000 экз ed.). К.: Политиздат Украины. Г. И. Серебряков, Б. Н. Буйских, А. А. Вовк и др.; Редкол.: И. А. Герасимов и др. 1979.