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第一号海防艦

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第一号海防艦
呉へ向け出港直前の第一号海防艦 (1944年3月1日、神戸沖)
呉へ向け出港直前の第一号海防艦
(1944年3月1日、神戸沖)
基本情報
建造所 三菱重工業神戸造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 第一号型海防艦
建造費 5,015,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル戦計画
起工 1943年9月15日[1][2]
進水 1943年12月29日
竣工 1944年2月29日
最期 1945年4月6日被爆沈没
除籍 1945年5月25日
要目(竣工時)
基準排水量 745トン
全長 67.50m
最大幅 8.40m
吃水 2.90m
主機 艦本式23号乙8型ディーゼル2基
推進 2軸
出力 1,900hp
速力 16.5ノット
燃料 重油 106トン
航続距離 14ノットで6,500カイリ
乗員 定員123名[注釈 1]
兵装 45口径12cm高角砲 単装2基
25mm機銃 3連装2基
三式爆雷投射機12基
爆雷120個
搭載艇 短艇3隻
レーダー 22号電探1基[注釈 2]
ソナー 九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基
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第一号海防艦[注釈 3](だいいちごうかいぼうかん)は、日本海軍の海防艦第一号型海防艦(丙型海防艦)の1番艦。大東亜戦争末期、輸送船団を護衛中に撃沈された。

艦歴

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計画-竣工-練成

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1944年3月1日、呉へ向け出港中の第一号海防艦

マル戦計画の海防艦丙、第2401号艦型の1番艦、仮称艦名第2401号艦として計画。1943年9月15日[1][2]、三菱重工業神戸造船所で建造番号711番船[3]として仮称艦名第2402号艦と同日に起工。12月22日、第一号海防艦と命名され、本籍を呉鎮守府と仮定し、第一号型海防艦の1番艦に定められる。29日、進水。本艦は国民からの建艦献金の一部を建造費に充てたため、非公式に「報國第一号海防艦」と称され、戦時下にもかかわらず進水が新聞で公表された[4][5][6]他、進水式はニュース映画として各地の映画館で公開された[7]

1944年1月25日、艤装員事務所を神戸三菱造船所内に設置し事務開始[8]。2月29日竣工し、艤装員事務所を撤去[9]。同日付で本籍を呉鎮守府に、役務を呉鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められ、呉防備戦隊に編入。基礎実力練成教育に従事。

1944年4月-8月 第一海上護衛隊

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1944年4月2日、海上護衛総司令部第一海上護衛隊に編入。門司へ回航後、5日から鉱石輸送船6隻のテ03船団を高雄まで護衛。高雄到着後テ03船団はタサ17船団、テ82船団と合同して19日に高雄を出発し、途中まで同一航路で運航した。船団は21日に東沙島沖でそれぞれ分離し、テ03船団は本艦と特設砲艦崋山丸の護衛を受け、23日に海南島楡林に到着した。往航と同じ内容で復航のテ04船団を編成し、4月30日に門司へ向け楡林を出発したが、アメリカ潜水艦群による攻撃を受け輸送船6隻のうち5隻が沈没し、護衛の崋山丸も損傷した。残存艦船は5月6日までに基隆に退避した。

5月7日、ミ03船団を途中まで護衛し高雄に帰還。10日、テ05船団を護衛して高雄を発し14日楡林に到着したが、内地におけるボーキサイト集積量の見積もりに誤りがあったため、楡林での鉄鉱石の積み込みを中止し、復航テ06船団の発航も取りやめ、第8号海防艦らを新たに護衛として加え、ホ01船団としてシンガポールへ向かう事になった。楡林での鉄鉱石の積み込みはマニラに在泊中の陸軍徴傭船を充当することになった。19日、ホ01船団を護衛してシンガポールへ向け出港し、26日にシンガポールの港口に到達したところで今度はミシ02船団を出迎えるため単艦で反転し、29日になってシンガポールに入港した。

6月3日、復航のホ02船団を護衛しシンガポールを出港したが、6日に第15号海防艦が被雷沈没。その後マニラと基隆に寄港し、門司へ向け航行中の24日、野母崎沖南西20kmの地点でアメリカ潜水艦タングの攻撃を受け、輸送船4隻が撃沈された。26日、門司に到着しへ回航。27日から7月3日まで呉海軍工廠で整備と探信儀の設置工事を行う。

7月6日、モマ02船団(15隻)を護衛して門司発。13日、高雄着。14日、タマ21C船団(20隻)を護衛してマニラへ向け高雄発。19日、マニラ着。23日、マニラに寄港したミ08船団を護衛してマニラ発。27日、高雄着。28日、引き続きミ08船団を護衛して内地へ向け高雄発[10]

8月1日、ミ08船団は基隆で避泊。4日、基隆発。10日、古仁屋に寄港。11日、引き続きミ08船団を護衛して古仁屋発。14日、船団から分離して佐世保へ回航。14日から23日まで佐世保海軍工廠で入渠し、船体と機関の整備を行う。24日、ヒ73船団を迎えるため有川湾に回航。26日に同船団から分離して佐世保へ回航し、モタ25船団の編成を待つ。8月31日、モタ25船団(3隻)を護衛して高雄へ向け寺島水道[11]

1944年9月-12月 第十一海防隊

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1944年9月3日、モタ25船団護衛部隊3隻[注釈 4]は高雄で編成中のタマ25船団[注釈 5]の護衛に割り当てられることとなり、高雄行きを取りやめ基隆に回航されることとなった。本艦らはモタ25船団を基隆まで送り届け、4日高雄に入港。5日、第一海上護衛隊隷下に新編された第十一海防隊に編入[注釈 6]、海防隊司令海防艦に指定され海防隊司令平野泰治中佐が乗艦した[注釈 7]。同日、タマ25船団(11隻)を護衛して高雄発。6日船団がアメリカ潜水艦の攻撃により損害を出したため、東港に退避。8日、引き続きタマ25船団を護衛してマニラへ向け東港発。9日、船団が再び損害を出したため、10日ラボック湾に退避。11日ラボック湾を出港したが、ビサヤ諸島が12日にアメリカ艦上機の空襲を受けていたため、マニラ直行をとりやめて13日にスービック湾で仮泊。14日にはサンタクルスへ退避することとなった。17日、アメリカ艦上機によるビサヤ諸島に対する空襲が終わったためスービック湾へ向けサンタクルスを出港し、同日スービック湾に入港。18日に同湾を出港し、同日マニラに到着した。20日、マタ27A船団(6隻)を護衛して高雄へ向けマニラ発。21日、スービック湾沖でアメリカ艦上機の空襲を受け、対空戦闘を行う。この空襲で船団は全滅してしまい、本艦は機雷長職務執行以下戦死者4名を出し、僚艦の第5号海防艦も被爆して沈没した。同日、残された護衛艦艇はサンタクルスに退避。その後は22日サンフェルナンド、23日ラボック湾と避泊を繰り返し、26日高雄に入港した。29日、海老原海防艦長が喀血のため高雄で入院。同日[12]、タモ26船団(9隻)を護衛して基隆へ回航。30日、基隆で臨時艦長を乗艦させ出港[13]

10月6日、門司着。7日から18日まで呉海軍工廠で入渠し、修理を行う。18日門司へ回航し、モマ06船団の編成を待つ。22日、モマ06船団(11隻)を護衛してマニラへ向け門司発。船団は2隻を失い1隻が離脱しながらも27日基隆に入港し、31日高雄着[14]

11月1日、引き続きモマ06船団を護衛してマニラへ向け高雄発。途中サブタン島とサンタクルスを経由し、9日マニラ着。12日、マタ32船団(3隻)を護衛して高雄へ向けマニラ発。14日、アメリカ潜水艦群の攻撃を受けて第7号海防艦、鞍埼、海軍配当船第五雲海丸が相次いで撃沈され、残りの艦船は17日に高雄に入港した。11月20日、第130号海防艦(サンジャック在泊中)と第134号海防艦(泗礁山在泊中)が第十一海防隊に編入される[15]。23日、タマ32A船団を護衛してマニラへ向け高雄発。途中枋寮、ムサ、ラボック湾、サンフェルナンドで避泊を繰り返し、30日マニラ着[16]

12月9日、4隻を護衛して高雄発。10日、第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に改編。11日、マニラ着。以後、12月中の行動は不明[17]

1945年1月-沈没

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1945年4月6日、爆弾が命中した瞬間の第一号海防艦

1945年1月1日、サマ14船団を護衛し高雄着。3日、西方への退避を命じられ船団は高雄を出港。4日、南澳島に退避。5日、第3号海防艦を除く第十一海防隊は香港へ回航。7日、香港着。8日、ホタ02船団(2隻)を護衛して高雄へ向け香港発。航行中に行き先を馬公に変更し、11日馬公着。13日高雄へ回航し、14日タモ37船団(7隻)を護衛して内地へ向け高雄発。途中七口洋と泗礁山を経由して、23日六連着[18]。なお、六連へ向け航行中の20日、第36号海防艦(黒井湾在泊中)が第十一海防隊に編入する[19]。本艦は24日から2月4日まで、呉海軍工廠で入渠し修理と整備を行う。

2月4日出渠後門司へ回航し、7日からヒ79船団を護衛、20日シンガポール着。26日から27日まで第130号海防艦とともにヒ94船団に同行、27日からヒ98船団(良榮丸、ぱれんばん丸)に合流するためサンジャックへ向かう。

3月3日0730時、サンジャックに到着して船団に合流し、同0930時には出港した。翌4日にぱれんばん丸が撃沈されたため、船団は一時ツーランに避泊。第69号海防艦と第134号海防艦の来援を待ち、5日にツーランを出発するが、その日のうちに良榮丸が撃沈された。本艦は他艦と分離し楡林-香港間を往復しつつ待機。25日、ヒ88J船団に合流するため楡林を出発し、27日夜にナトランで同船団に合流した。28日朝、船団はナトランを出発したが、その日のうちに空襲と潜水艦により阿蘇川丸と鳳南丸を撃沈され、29日には第84号海防艦と海興丸も撃沈された。30日、三亜に到着したがここでも空襲をうけたため、翌日に引き払い香港に回航。

4月4日1700時、天津風らとホモ03船団(第二東海丸、甲子丸)を護衛し香港を出発したが、翌5日にはアメリカ陸軍機の空襲により2隻の輸送船を撃沈された。6日からは残された護衛艦にも攻撃が始まり、厦門南方洋上で本艦と第134号海防艦が相次いで撃沈された。この攻撃で乗員175名中、海防艦長の有馬國夫少佐以下乗員155名戦死。両艦に対しては横転、沈没後も繰り返し機銃掃射が加えられて 死傷者が続出し、生存者20名が救助されたものの、5月2日に別府海軍病院に収容された1名が、5月25日までに香港海軍病舎に収容された19名全員が沈没時の負傷により死亡し、総員戦死しているためその最後は定かではない[20]。また、当艦に対する米軍機の攻撃時の写真が比較的残されており、機銃掃射時に撮影された転覆時艦に兵士がしがみ付いている写真等が残っている。

5月25日、第一号海防艦は第十一海防隊と第一号型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。

時が流れた2012年、厦門沖から艦の残骸が発見され、中国の政府当局はサルベージを禁ずるとともに無断で引き上げられた30トンあまりの残骸を差し押さえ、文化財として保護している。遺留物の砲弾薬莢や名札の人名などから、残骸は第一号海防艦ではないかと言われている[21]

海防艦長

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艤装員長
  1. 海老原義一郎 少佐:1944年1月30日 - 1944年2月29日
海防艦長
  1. 海老原義一郎 少佐:1944年2月29日 - 1944年9月30日
  2. (臨時)本荘卓爾 大尉:1944年9月30日 - 1944年10月5日 (本職:第一海上護衛隊司令部附)
  3. 有馬國夫 少佐:1944年10月5日 - 1945年4月6日 戦死、同日付任海軍中佐

脚注

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注釈
  1. ^ この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ 引渡し時は架台のみあり、送受波器は未装備。
  3. ^ 本来の艦名表記は第一號海防艦。以下、「第一号海防艦」の表記部について同じ。
  4. ^ 第1号海防艦、第3号海防艦第5号海防艦
  5. ^ 駒宮『戦時輸送船団史』p. 245によれば、フィリピン防衛のため陸軍機械化部隊を輸送する最重要船団と称されるもの。
  6. ^ 新編時の構成艦は第1号海防艦(海防隊司令海防艦)、第3号海防艦、第5号海防艦、第7号海防艦の4隻。
  7. ^ 本艦沈没時の第十一海防隊司令の乗艦とされる第百三十四号海防艦への司令海防艦継承日は、戦時日誌、秘海軍公報の何れでも確認できない。
脚注
  1. ^ a b 『昭和造船史 第1巻』、p. 828。
  2. ^ a b 『写真 日本海軍全艦艇史』資料篇、p. 22。
  3. ^ 『新三菱神戸造船所五十年史』、p. 附録39。
  4. ^ 「海防艦の進水 銃後に贈る海の新鋭」、朝日新聞1943年12月30日付朝刊(東京本社版)、2頁
  5. ^ 「一億の赤誠乗せて 征け勝利の海へ 報国第一号海防艦 晴の進水」、毎日新聞1943年12月30日付朝刊(東京本社版)、2頁
  6. ^ 「「一億のみ艦」今ぞ征く 献金の結晶・報国海防艦の進水式」、讀賣報知1943年12月30日付朝刊、2頁
  7. ^ 献金による海防艦進水式, 『日本ニュース』第188号 1944年(昭和19年)1月6日
  8. ^ 昭和19年2月9日付 海軍公報(部内限)第4612号。
  9. ^ 昭和19年3月9日付 海軍公報(部内限)第4636号。
  10. ^ 以上1944年7月中の行動は、第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年7月1日-31日)による。
  11. ^ 以上1944年8月中の行動は、第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年8月1日-31日)による。
  12. ^ 日付は第一号海防艦戦時日誌(昭和19年9月1日-30日)による。海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 404およびp. 410では27日、第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年9月1日-30日)では「?(日付不明)」としている。
  13. ^ 以上1944年9月中の行動は、注釈脚注があるものを除き第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年9月1日-30日)、昭和19年9月21日 第一号海防艦戦闘詳報、第一号海防艦戦時日誌(昭和19年9月1日-30日)による。
  14. ^ 以上1944年10月中の行動は、第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年10月1日-31日)による。
  15. ^ 昭和19年11月20日付 内令第1285号。
  16. ^ 以上1944年11月中の行動は、注釈脚注があるものを除き第一海上護衛隊戦時日誌(昭和19年11月1日-30日)による。
  17. ^ 以上1944年12月中の行動は、海防艦顕彰会『海防艦戦記』p. 405による。1944年12月の第一海上護衛隊と第一護衛艦隊の戦時日誌が未公開のため状況が不明。
  18. ^ 以上1945年1月23日までの行動は、脚注のあるものを除き第一護衛艦隊戦時日誌(昭和20年1月1日-31日)による。
  19. ^ 昭和20年1月20日付 内令第52号。
  20. ^ 海防艦戦記 海防艦顕彰会
  21. ^ 残骸引き上げに関するニュース(中国語)

参考文献

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  • 海軍省
    • 法令、令達
      • 昭和18年12月22日付 達第319号、内令第2776号、内令第2778号、内令第2780号。
      • 昭和19年2月29日付 内令第366号。
      • 昭和19年9月5日付 内令第1041号。
      • 昭和19年11月20日付 内令第1285号。
      • 昭和20年1月20日付 内令第52号。
      • 昭和20年5月25日付 内令第466号、内令第470号、内令第472号、内令員第1001号、内令員第1002号。
    • 人事発令
      • 昭和19年1月31日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1309号。
      • 昭和19年2月29日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1349号。
      • 昭和19年10月2日付 秘海軍辞令公報 甲 第1608号。
      • 昭和19年10月10日付 秘海軍辞令公報 甲 第1615号。
      • 昭和20年11月12日付 海軍辞令公報 甲 第1979号。
    • 戦時日誌、雑款
      • 昭和19年2月9日付 海軍公報(部内限)第4612号。
      • 昭和19年3月9日付 海軍公報(部内限)第4636号。
      • 第一号海防艦戦時日誌。
      • 呉防備戦隊戦時日誌。
      • 第一号海防艦戦時日誌。
      • 第十一海防隊機密第1号ノ1ノ9 昭和19年9月21日 第一号海防艦戦闘詳報。
      • 第一護衛艦隊戦時日誌。
  • 海防艦顕彰会『海防艦戦記』、原書房、1982年。
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9
  • 坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
  • 『新三菱神戸造船所五十年史』、新三菱重工業株式会社神戸造船所、1957年。
  • 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
  • 防衛研修所戦史室 『戦史叢書』、朝雲新聞社
    • 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、1971年。
    • 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、1974年。
    • 第88巻 『海軍軍戦備(2) -開戦以後-』、1975年。
  • 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
  • 森田友幸 『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』、光人社、2004年。ISBN 978-4-7698-2438-1
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。