立花種吉
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 慶長13年(1608年) |
死没 | 正保2年9月19日(1645年11月7日) |
別名 |
幼名:松千代丸、通称:与兵衛 種昌 |
戒名 | 陽岳宗岐大禅定門[1] |
墓所 | 下谷広徳寺、台照院[2] |
官位 | 従五位下・甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花直次 母:筑紫広門の娘・永雲院[3](岡氏[4]) |
兄弟 | 種次、種吉、政俊(種俊)、忠茂 |
妻 | 野一色義重女 |
子 | 種成、能勢頼栄[5]室、本多時令[6]室 |
立花 種吉(たちばな たねよし)は、江戸時代前期の旗本。三池藩主家立花氏分家の一つである立花甲斐守家の祖。戦国武将立花直次の次男。幼名は松千代丸、長じて通称与兵衛と呼ばれた。正室は旗本野一色義重の娘。子は種成、能勢頼栄室、本多時令室。石高700石。
生涯
[編集]慶長13年(1608年)、当時浪人で宗卜と称した直次の子として誕生。直次は後に徳川秀忠に召し抱えられて江戸幕府旗本となり、慶長19年(1614年)に常陸国筑波郡に5000石を領する。母は筑紫文書では筑紫広門の娘・永雲院とされ、「寛政重修諸家譜」では岡氏とされている。兄弟に三池藩初代藩主となった種次や、伯父宗茂の養嗣子となり柳河藩第2代藩主なった忠茂などがいる。
元和3年(1617年)に父の直次が死去する。元和9年(1623年)11月、大御所秀忠と将軍家光に初めて拝謁する。小姓に列して廩米500俵(500石の知行と同じ)を与えられた。
寛永7年(1630年)12月29日従五位下・甲斐守に叙任される。のちに書院番に移り、寛永9年(1632年)11月5日より進物の事を勤める。寛永10年(1633年)2月7日、200石を加増され、合計700石となったことから、相模国大住郡内に石高700石分の知行地を貰う。
正保2年(1645年)9月19日死去。享年38。法名は宗岐。下谷広徳寺に葬られた。家督は種成が相続した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「三百藩家臣人名事典7」(新人物往来社)
- 柳川市史編集委員会「柳川歴史資料集成第三集 柳河藩立花家分限帳」(福岡県柳川市)
- 「日本歴史地名大系第41巻 福岡県の地名」(平凡社、2004年)
- 「立花家記・おおむたの宝もの100選」
- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 立花氏」『寛政重修諸家譜』 。
- 『新訂寛政重修諸家譜 第2』(続群書類従完成会、1964年)