窪井義道
窪井 義道 くぼい よしみち | |
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窪井義道 | |
生年月日 | 1892年1月4日 |
出生地 |
山口県熊毛郡三丘村 (現・山口県周南市) |
没年月日 | 1949年11月13日(57歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学独法科 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
立憲政友会 昭和会 立憲政友会革新同盟 日本進歩党 |
窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4日[1] - 1949年(昭和24年)11月13日[2])は、日本の政治家・弁護士・実業家。立憲政友会→昭和会→政友会革新同盟→日本進歩党所属の衆議院議員で内務政務次官や海軍参与官を務めた。
経歴
[編集]山口県熊毛郡三丘村(現・周南市)出身。1918年(大正7年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した[1]。大倉商事に入社したが[3]、1922年(大正11年)に法律研究のためドイツに留学した[1]。1924年(大正13年)に帰国し、弁護士を開業した[1]。
1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し当選[4]。さらに第18回衆議院議員総選挙から第21回衆議院議員総選挙まで4期連続当選を果たした。初めは政友会に所属し、第18回衆議院議員総選挙でも政友会公認で立候補し当選した[5]。1935年(昭和10年)に政友会を離党して昭和会の結党に参加し[6]、第19回衆議院議員総選挙と第20回衆議院議員総選挙には昭和会公認で立候補し当選した[7][8]。その間、岡田内閣で海軍参与官を務めた。1937年(昭和12年)に昭和会が瓦解すると院内会派の第一議員俱楽部に所属し(院外では無所属)、1939年(昭和14年)に政友会が分裂すると旧昭和会の政友会出身者とともに政友会革新派に復党した[9]。また1941年(昭和16年)には松岡洋右外務大臣の顧問としてドイツ・イタリア訪問に随行した[10]。第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選した[11]。鈴木貫太郎内閣で内務政務次官を務めた。
戦後、翼賛政治体制協議会の推薦議員のため公職追放となる[12]。追放中の1949年11月13日に57歳で死去した。
その他、国際工船漁業株式会社社長、黄海漁業株式会社社長、不二映画株式会社社長[3]、山王館株式会社監査役[1]、ウシオ製作所株式会社監査役[13]、満洲興業株式会社取締役、日産無線電機株式会社社長、新興機械工業株式会社社長[10]を務めた。
訳書
[編集]- カール・ハウスホーファー『大陸政治と海洋政治』(大鵬社、1943年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『帝国大学出身名鑑』
- ^ 『新訂政治家人名事典』
- ^ a b 『衆議院要覧』
- ^ 『官報』第3453号、大正13年2月29日。
- ^ 山口2区 - 第18回衆議院議員選挙 - イチニ株式会社が運営するサイト・選挙ドットコム内のページ。
- ^ 内田鉄相、望月逓相ら政友会脱退組が組織『中外商業新報』昭和10年12月24日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 山口2区 - 第19回衆議院議員選挙 - 選挙ドットコム内のページ。
- ^ 山口2区 - 第20回衆議院議員選挙 - 選挙ドットコム内のページ。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編 衆議院の部』、431頁 - 432頁、434頁 - 435頁。
- ^ a b 『人事興信録』第13版
- ^ 山口2区 - 第21回衆議院議員選挙 - 選挙ドットコム内のページ。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、291頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『人事興信録』第10版
参考文献
[編集]- 校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版(上)』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版(上)』人事興信所、1941年。
- 『衆議院要覧(乙) 昭和十七年十一月』衆議院事務局、1942年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編 衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。