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秋津温泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

秋津温泉』(あきつおんせん)は、1947年に発表された藤原審爾小説1962年には同名のタイトルで日本映画として公開される。

小説

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藤原審爾は戦争中21歳の時に岡山で「秋津温泉」の執筆を始め、戦災で吉備津に移り、戦後倉敷市で書きあげた。同人誌に書いた作品が河盛好蔵らに認められて、『人間別冊』『別册文藝春秋』から執筆の依頼が来て、1947年に前半を『人間別冊』に、後半を『別册文藝春秋』に掲載。1948年、講談社の新鋭文学選書として刊行。加筆したものを1949年に新潮社より刊行。藤原の初期代表作として知られる。

主人公<私>は17年間にわたり5度秋津温泉を訪問し、ヒロイン新子と17年間にわたる愛を深める。

岡山県奥津温泉がモデルである。藤原審爾は少年期と戦中を岡山で暮らした。作中、ヒロインが営む温泉旅館の『秋津荘』は、旅館『河鹿園』がモデルだったが、2012年に廃業した。また、<私>とお新さんの関係が終止符を打たれる場面に描かれた、サクラの木のある場所は奥津渓の脇だが、実際にあるのはモミジの木である[1]

映画

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秋津温泉
Akitsu Springs
監督 吉田喜重
脚本 吉田喜重
製作 白井昌夫
出演者 岡田茉莉子
長門裕之
山村聡
宇野重吉
音楽 林光
撮影 成島東一郎
編集 杉原よ志
製作会社 松竹大船撮影所
配給 松竹
公開 日本の旗 1962年6月15日
上映時間 112分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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監督と脚本は吉田喜重岡田茉莉子のデビューから100本記念作品として、岡田自身が「秋津温泉」の映画化を提案し、『熱愛者』に続いてプロデューサーとなった。監督の吉田にはかつて『ろくでなし』の出演を依頼されたがスケジュールの都合で出られなかったことがあり、『秋津温泉』の監督を依頼したところ一度は断られ、脚本を吉田、カメラを成島東一郎とする条件で引き受けてもらった[2][3]。戦後、秋津荘を舞台に、生きる希望を失い時代に流されゆく男と、変わらぬ真情を抱き裏切られる女を、時代から取り残される秋津荘の運命を背景に描く。

1962年昭和37年)キネマ旬報ベストテン第10位、第17回毎日映画コンクール女優主演賞(岡田茉莉子)を受賞した。

岡田はこの映画の後で引退しようと考えたが、監督の吉田に「あなたは青春を映画に全て捧げて、もったいないかと思いませんか」と言われて引き留められた。1963年には吉田と結婚、「吉田と結婚したから、女優を一生続けようと思いました」と語っている[3]

当初、芥川比呂志でクランクインしたが、途中で芥川が病気で降板し、急きょ長門裕之を代役に立てて撮り直した。

旅館『大釣荘』で撮影が行われた。また、入浴場面は大釣荘近くの般若寺温泉で撮影された。大釣荘は廃業し、跡地は『大釣温泉』[1]という日帰り入浴施設になっている[1]

あらすじ

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太平洋戦争中、生きる気力を無くした一人の青年、河本周作は死に場所を求めてふらりと秋津温泉にくる。結核に冒されている河本は、温泉で倒れたところを、温泉宿の女将の娘、新子の介護によって元気を取り戻す。そして、終戦。玉音放送を聞いて涙する純粋な新子に心打たれた河本は、やがて生きる力をとりもどしていく。互いに心惹かれる二人だったが、女将が河本を追い出してしまったために、河本は街に戻る。数年後、秋津に再び現れた河本だが、酒におぼれ、女にだらしない、堕落してしまった河本に、新子はいらだちを覚える。そこで、河本が結婚したことを知った新子は、苦しい河本への思いを捨てきれないまま、河本を送り出す。その後、東京に行くことになった河本は再び秋津を訪れる。一途なまでに河本を思う新子、そして、優柔不断でだらしない河本は再び都会へ。さらに四たび秋津を訪れる河本、そのときには旅館を廃業した新子だったが、河本は新子との肉体の情欲にだけ溺れる。新子は、河本にいっしょに死んでくれと言う。そして最後、河本と別れたあとに、思いつめた新子は手首を剃刀で切るのだった。

原作では、寺の次男との結婚を控えた新子が「あたしはこれでいいのよ、これで倖せだわ」と話すところで終わっており、手首を切る場面はない。

キャスト

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スタッフ

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脚注

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  1. ^ a b 岡山の街角から - 舞台探訪・聖地巡礼>秋津温泉・岡山ロケ地
  2. ^ 『女優 岡田茉利子』(文藝春秋)
  3. ^ a b 朝日新聞「人生の贈り物 岡田茉莉子 10 吉田喜重の才能にほれた」2018年4月6日