秋月種封
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文2年2月23日(1662年4月11日)[1] |
死没 | 宝永6年1月10日(1709年2月8日) |
別名 | 宗吉、重三郎(通称)、種重、式部 |
戒名 | 円成院覚厳宗本居士[2] |
墓所 | 下谷広徳寺の梅雲院 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川綱吉 |
氏族 | 秋月氏 |
父母 | 父:秋月種信、母:松浦隆信の娘・長徳院 |
兄弟 |
イヌ、チヨ、ナベ、種恒、トリ、種政、マツ、クニ、種封、種利、マル、佐久間勝親、ノブ、サン、ヒサ、シホ、 ヒサら |
妻 | 正室:織田長頼娘 |
子 | 民部、種羽、牧野忠列、種輔、松浦棟養女、真田信清室、松浦信秀、中村道重 |
秋月 種封(あきづき たねくに)は、江戸時代前期の旗本寄合。高鍋藩主家分家で木脇領主の旗本寄合席秋月家の初代当主。
生涯
[編集]秋月種信の三男として出生。延宝5年(1678年)12月12日に徳川綱吉に初御目見を済ます。武鑑では藩主二男、または舎弟として掲載されており、元禄元年(1688年)の本朝武鑑では秋月佐渡守と共に「御二男 十三郎」との記載がある。
元禄2年(1689年)2月末日、父の種信が隠居して兄の種政が高鍋藩主の家督を相続する際に、父の封地より木脇村(現在の国富町)を始め日向国諸県郡、宮崎郡内3,000石を分封され、旗本寄合席となる。
宝永2年(1705年)刊行の御林武鑑でも、秋月長門守(種政)の御弟として「秋月式部種乗」の記載がある。
宝永6年(1709年)、48歳で没する。法名は円成院覚厳宗本居士[2]。墓所は下谷広徳寺の梅雲院で、後に代々の葬地となる。
長男の民部は早世していたために没後、次男の種羽が跡を継いだ。