秋元礼朝
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 嘉永元年5月16日(1848年6月16日) |
死没 | 明治16年(1883年)6月13日 |
改名 | 五十橘(幼名)→礼朝 |
墓所 |
東京都台東区谷中の天王寺 群馬県前橋市総社町総社の光厳寺 |
官位 |
従五位下、但馬守、従四位 贈正四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上野館林藩主→館林藩知事 |
氏族 | 太田氏→秋元氏 |
父母 |
父:太田資始 母:良(上杉斉定の六女、側室の子とも) 養父:秋元志朝 |
兄弟 | 太田資功、礼朝、内藤政挙、太田資美 |
妻 | 正室:操(戸田忠温の十一女) |
子 | 養子:興朝 |
秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。
生涯
[編集]嘉永元年(1848年)5月16日、遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の五男として生まれる[1]。安政6年(1859年)に館林藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に養父が禁門の変により幕府から隠居させられたため、家督を継ぐ。慶応2年(1866年)に奏者番に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金2万両を出して協力した。その功により明治2年(1869年)に賞典禄1万石を加増された。
明治2年(1869年)、版籍奉還により館林藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官。同年9月に隠居し、養子の興朝に家督を譲る。明治16年(1883年)6月13日に死去。享年36。
系譜
[編集]父母
正室
- 操 ー 戸田忠温の十一女
養子
脚注
[編集]- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 18頁。
当主 | ||
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先代 秋元志朝 |
館林藩秋元家 11代 1864年 - 1871年 |
次代 秋元興朝 |