福沢諭吉 (映画)
福沢諭吉 | |
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監督 | 澤井信一郎 |
脚本 | 笠原和夫、桂千穂 |
製作 | 佐藤正忠、高岩淡 |
出演者 |
柴田恭兵 榎木孝明 仲村トオル 南野陽子 若村麻由美 哀川翔 |
音楽 | 久石譲 |
撮影 | 仙元誠三 |
編集 | 市田勇 |
製作会社 | 東映京都撮影所/東映東京撮影所[1] |
配給 | 東映 |
公開 | 1991年8月24日 |
上映時間 | 123分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 11億円[2] |
『福沢諭吉』(ふくざわゆきち)は、1991年の日本映画。福沢諭吉の伝記映画。東映京都撮影所/東映東京撮影所初の共同制作[1][3]、東映配給。文部省選定(青年・成人向)[4]、優秀映画鑑賞会推薦他多数団体推薦[4]。
概要
[編集]幕末の少年時代から明治新政府下での慶應義塾設立に至るまでの福沢諭吉の半生を奥平外記との葛藤を中心に描く[5]。
あらすじ
[編集]1835年、豊前国下毛郡の中津藩の下級武士の家に生まれた諭吉は、同じ年に生まれた家老の息子・奥平外記とともに蘭学を志し長崎に留学。進歩は著しく大阪の緒方洪庵の適塾へ入門しここでも頭角を現し塾長となる。さらに江戸で蘭学塾「一小家塾」(後の慶應義塾)を開く。ある日見物に行った横浜で英語の存在を知った諭吉は、西洋文明へ開眼し1860年、咸臨丸で渡米する[1][6]。
キャスト
[編集]- 福澤諭吉:柴田恭兵
- 奥平外記:榎木孝明
- 篠原小十郎:仲村トオル
- ノブ:南野陽子
- お錦:若村麻由美
- 中条貢:哀川翔
- 黒沢竹之介:野村宏伸
- 松倉玄斎:火野正平
- お琴:芦川よしみ
- 土岐太郎八:鈴木瑞穂
- 岡本周吉:勝野洋
- 小畑徳次郎:寺杣昌紀
- 天野清四郎:円谷浩
- 島田理三郎:富士原恭平
- 永井鉄之助:小林秀樹
- 朝島文吾:中村久光
- 岩井槌之進:柴田善行
- 小林新吾:竜川真
- 片岡孝十郎:山田良隆
- 結城吉之助:波方清
- 三浦信太郎:砂川真吾
- 高石進之助:中島俊一
- 山田雅之進:野土晴久
- 薩摩藩士:村田雄浩
- 赤松五平:馬淵英明
- 黒沢武兵衛:草薙幸二郎
- 小沼平左衛門:壬生新太郎
スタッフ
[編集]- 監督:澤井信一郎
- 脚本:笠原和夫、桂千穂
- 企画:岡田裕介、佐藤雅夫、岡田裕
- 製作:佐藤正忠、高岩淡
- プロデューサー:豊島泉、成田尚哉
- 撮影:仙元誠三
- 美術:井川徳道
- 音楽:久石譲
- 録音:堀池美夫
- 照明:渡辺三雄
- 編集:市田勇
- 助監督:藤原敏之
製作
[編集]企画
[編集]福沢諭吉の崇拝者である雑誌『経済界』の主幹・佐藤正忠が、古くから付き合いのある岡田茂東映社長(当時)に企画を提出し、岡田はまだ承諾していないのに、佐藤が「東映が福澤諭吉を映画にするから賛助金を」と企業からどんどん金を集めて回ったため作らざるを得なくなった[7][8][9][10][11]。結局、全製作費を佐藤自身で用意するという約束で東映で製作を決めた[12][13]。佐藤は前売り券を200万枚固めると豪語していた[7][14]。こうした企業タイアップ映画は、原価10億円のスケールとなるため、前売りが100万枚は売れないとやる意味がないと岡田は話していた[7]。しかし事情があって岡田は途中からプロデューサーを慶応出身の息子・岡田裕介に代えた[8][9]。
高岩淡東映専務は「東映からはゼッタイ出ない企画ですね。たとえ、うちのプロデューサーがこの企画出したとしても製作実現、不可能な企画でしょうね(哄笑)。諭吉の100年前の生き方、あの動乱期の鮮烈な青春像こそ、いま世に問うべきだというのが佐藤正忠さんの想いでしてね。その烈れつたる想いのたけに、岡田社長は心打たれて作ろうということになったもので、佐藤さんの強い要請がなかったら生まれなかった企画です。監督の澤井信一郎も『福沢諭吉ですかァ……』と最初は首をかしげたぐらいですから(哄笑)。『福沢諭吉には何の興味の共感もありません』なんてことを言ってる(哄笑)。われわれも福沢諭吉に関しては認識がかなり低いです。しかし、やるべしという至上命令で、笠原和夫が脚本に取り組むことになっていろいろ調べてみると、段々面白いと言い出した。澤井信一郎も関わってみると『やっぱり、人間の大きさが現代人とは違う』などと脱帽してますよ(哄笑)。澤井信一郎は時代劇初挑戦ですが、マキノ流の映画作法をキチンと身につけてますし、これまで社員監督であったのがフリーになっての第一作ですから、そのあたり取り組み方もおのずと違って来てるんじゃないかな。時代劇と言うと北大路欣也とか松方弘樹ということになるんですが、柴田恭兵を始め、若手の現代劇俳優ばかり並べたキャスティングで、期せずして時代劇としての新しさを出していると思います。製作費は5億円を越えると思いますが、幕末から明治初年までの話ですから、文明開化のハイカラな風俗まで描くわけで、並みの時代劇の倍かかるわけです。独立プロで作ったらとても5億円じゃ上がりませんよ。京都撮影所には長年の蓄積がありますから。これが興行的に成功したら、時代劇ジャンルでいろんなトライが生まれると思いますね。期せずして、新時代劇創造の具体的な形が生まれたわけですから(哄笑)」等と述べている[14]。
製作発表
[編集]製作発表記者会見が福沢諭吉の菩提寺、東京麻布の善福寺で行われ[3]、岡田東映社長、佐藤正忠『経済界』主幹、柴田恭兵、澤井信一郎らが出席。岡田社長は「何か異色の企画をと考えていた時に佐藤主幹から福沢諭吉の話があり、面白いと採りあげた。しかし興行的に大当たりさせるには佐藤氏が製作を引き受けてくれなければとお願いした。重量感のある娯楽大作に完成して全社挙げて大動員を図りたい」等と話した[3]。また本作で初めて東映の東西両撮影所所長・岡田裕介東京撮影所(以下、東映東京)と佐藤雅夫京都撮影所長が初ジョイントプロデュースにあたる[3]、撮影は1991年2月27日、京都でクランクイン、4月いっぱいでクランクアップと発表された[3]。
脚本
[編集]岡田社長から笠原和夫に電話があり「おい、一万円やるぞ!」「はぁ?」「一万円や、お前、書け」と笠原が脚本を担当[8][9]。「どうしたらいいですか?」と聞いたら「どうでもいいから、とにかくパーっと景気にいい話にしてくれ」と指示された[8]。笠原は福沢諭吉が好きではなかったがやむなく脚本に取り掛かり、いつものように福沢の資料を山ほど集めたが、福沢諭吉自体は愛人も一人もいないような映画的な題材には面白みのない人で[15]、福沢の資料集めの段階で自殺した諭吉の父・福沢百助の話を柱にしようとした[8]。しかし慶応出身の岡田裕介がオミットしたため[8]、福沢とほぼ同世代の勝海舟や榎本武揚、大鳥圭介、鈴藤勇次郎らを出して明治維新一歩手前の青春群像を書き脚本を提出した[8]。
本作は笠原と監督の澤井信一郎との行き違いが有名である[8][16]。笠原の第一稿は東映調のスペクタクルなシナリオだったが、澤井が気に入らず揉めた[13]。笠原は打ち合わせで初めて澤井に会うなり開口一番「笠原さん、私はドラマは要りません」と言われ、「ドラマがいらないならシナリオライターはいらないんじゃないか」と降りようとした。しかし岡田裕介に引き止められ、数日後再度話し合いが持たれ、澤井が「福沢が英語教師をやっていた話なんかをマジに描きたい」と言うから「そんなの画になるかね?」「それなら君が自分で書いたらいいじゃない」と言ったら「力を貸して下さい」と言うので、「福沢と子供の頃からの友人で、福沢と正反対のような人生を歩んでいる奥平壱岐を絡ませる話にしたらどうだ」と提案したら「笠原さん、私はそれを捜していたんです!」と言うから「バカ言ってるんじゃないよ、これはドラマじゃないか」と言ってやったなどと話している[8][9]。澤井は著書『映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法』にこの笠原の自身への批判を長く頁を割いて解説している。初対面の先輩ライターに開口一番「ドラマは要りません」なんて、常識や礼儀を重んじる僕は言わない、ドラマというものの掴み方に対して両者が違う、わざとらしく用意された対立への対応に、人物のキャラクターや幅を見出す作業が、僕には作りすぎと思えた、プロデューサー、ライター、監督三者による執筆以前の意見の出し合い、合意というプロセスがなかったこと、などの行き違いの訳を話している[16]。本作は笠原の脚本が先に決まり、ある程度脚本書きが進んだ後、澤井の監督抜擢が決まった[16]。笠原と澤井が初めて顔合わせしたのは笠原の第一稿提出の後だった。笠原は『仁義なき戦い』の脚本を一切直さないという条件で深作欣二の監督抜擢を認めた逸話もあり、当時は既に大家で、ほぼ一回りも年下の澤井が色々意見することに気分を害したものと推察される。共同脚本の桂千穂は「笠原さんは偉かったから、笠原さんの書いたものは誰も文句をいえなかった」と述べている[15]。本作は笠原和夫の映画化された最後の実写映画となる。こうした事情で笠原はやる気が失せ[8]『にっぽん脚本家クロニクル』でインタビューを受けていた桂千穂を呼び、脚本の意見を桂が話したら「君も書いてくれ」という話になり[15]、「印税だけでも800万円入るから。二人で分けても400万円だ」というので桂も脚本に参加した[13][15]。澤井は脚本直しの意見はプロデューサーからも出され、笠原さんも煮詰まり桂さんに協力を依頼したようだと述べている[16]。桂は「これで監督が舛田利雄さんだったら、すんなり東映調の大作で成立したんでしょうが。東映京都の意向と、澤井さんのやりたいこと、それに笠原さん自身が描きたいテーマ。その三つの接点が見出せなくて、硬直状態になっていたようです。それであいつなら何か出るんじゃないかって、僕を巻き込もうということだったと思う」などと述べている[13]。桂は笠原の二歳下の同世代で似たような戦争体験を持ち話も合い、大半は桂が書いたという[8]。笠原の当時の脚本執筆の常宿だった神楽坂の和可菜で笠原と桂で脚本を書き、桂は「終わると毎日笠原さんにご馳走に預かった。あんなに楽しかったことはなかった」などと話している[15]。
しかしその後も笠原が柱の一人にしたかった増田宗太郎の話を外されたり[8]、中盤でノイローゼになる中条貢の扱いなどでも揉めて結局第四稿、脚本に半年を要した[8][13]。桂は笠原との共同作業に「感化を受けたし勉強になった、大林先生、笠原先生が、僕の恩人。それまではみんなにバカにされていた」などと話している[13]。奥平外記は奥平壱岐であるが、ドラマ上で自殺させたため関係者からクレームを考慮し名前を変えている[12]。映画では福沢と同学年という設定だが実際は奥平が10歳年上である。
撮影
[編集]バブル景気盛んな時期で、映画、演劇に出資する企業が多く、Vシネマの本数も急激に増え、東映京都、東映東京ともスタッフ不足の状態[12]。澤井は、京撮の製作部から「スタッフを東撮から連れて来てくれないか」と頼まれ、クレーンの会社も含めて大半のスタッフを東撮から呼び寄せ京撮で撮影を行った[12]。バブル期の大きな予算のおかげで贅沢な撮影が可能だった[12]。慶應義塾は京都・大覚寺に、上野戦争のシーンは 長岡京市の光明寺にそれぞれオープンセットが組まれた[17]。
本作の見所の一つが小糠雨の降る夜の中、福沢(柴田恭兵)の少年時代からの友人・奥平(榎木孝明)がとり乱す6分30秒に及ぶ長回し[5][12][18]。時代に取り残された奥平が自身の半生を振り返りながら、雨中、右往左往して慨嘆するシーンをカメラがミディアム・ロング・ショット~ロング・ショット~バストショット~ロング・ショットと、人物の情動に合わせて正確にショットスケールを変化させる[5]。澤井演出と仙元誠三の繊細なカメラワークが冴えわたる名場面である[5]。ただ仙元は澤井のリテイク指示には違和感を感じたと話している[18]。
作品の評価
[編集]興行成績
[編集]11億円。1991年配給収入日本映画第7位[2]。アニメ以外の実写映画では『男はつらいよ 寅次郎の休日』に次ぐ成績。雑誌界のマッチポンプ男として知られた佐藤正忠が[11]、東映岡田茂の保証を盾に賛助金と称して、製作費の負担を強引に企業に迫り、ある会社は2億円も取られた[11]。また前売り券をばら撒いて、相当荒稼ぎしたといわれ[8][11]、東映の社名に泥を塗った[11]。
作品評
[編集]- 山根貞男は「なぜ、いま、福沢諭吉なのか。この映画の企画に対する疑問はついに拭えない。しかし澤井信一郎は、そんな不明瞭な企画を見応えのある作品に仕立て上げた。この映画を見ると幕末から明治維新にかけて活躍した人物を描く時代劇が数多くあったのに、なぜ福沢諭吉がこれまで一度も映画の主人公にならなかったのかが、実によく分かる。彼の名は一万円札になるほど一般的に知られているが、その生涯には映画的に見て、ドラマチックなところなど皆無に近いと思われるからである。では、この映画はその点をどう処理しているか。主人公はあくまで福沢諭吉で、幕末から明治初期にかけての激動期を舞台に、少年時代からの半生が描かれるが、周りの人物の激しいドラマの中、それを浮かび上がらせる仕掛けになっているのである。周りの人物のドラマに囲まれる形で浮かび上がる福沢諭吉は、何ら偉くなく、等身大の人間を生々しく感じさせる。だからこそ、ラスト近くで、戊辰戦争の勃発とともに塾生たちの多くが若い血をたぎらせて戦争に参加するなか、頑固なまでに教壇に立ち続ける福沢諭吉の精神がくっきりと爽やかに浮き立つ。信念を貫き通す迫力の中で、偉くはない人物の巨きさが際立ってくるのである。ロケーションの場面がたいへん多く、普通なら室内になってしまうシーンでも、広い戸外で撮られている。長回しのキャメラが大きな空間の中、様々な人間の多彩なドラマを映し出す。いかにも時代劇臭い感じがこの映画にないのは、明らかにそうしたことの効果だろう。それはつまり、ここには新しい時代劇の可能性がほの見えるということに他ならない。すべては澤井信一郎の闘いを告げる。とりわけ画面にみなぎる直球的な力が、やわな作品の氾濫を許している日本映画の現状に対する挑戦をひしひしと感じさせる」などと評した[19]。
- 落合信彦は「知識を唯一の武器と信じた諭吉こそ、真の国際人であった。当時、福沢諭吉が5人いたなら、その後の日本の進路はずっと違っていただろうし、今日の日本が一億総守銭奴ではなく、ずっとまともな国になっていただろう」などと[4]、舛添要一は「私の尊敬するプラグマティスト福沢の真骨頂と激動の幕末・明治維新を見事に描いた一大ドラマに感動した」と[4]、松本清張は「福沢諭吉は、日本史上の最重要人物の一人でありながら、なぜかドラマや物語、映画や小説には縁の薄い人だった。それゆえにこの映画の成功は大きな価値がある」と評した[4]。
脚注
[編集]- ^ a b c 福沢諭吉|一般社団法人日本映画製作者連盟
- ^ a b 1991年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
- ^ a b c d e 「製作 『福沢諭吉』」『映画時報』1991年3月号、映画時報社、20–21頁。
- ^ a b c d e 「広告」『AVジャーナル』1991年7月号、文化通信社、32–33頁。
- ^ a b c d 加藤幹郎『日本映画論 1933-2007ーテクストとコンテクスト』岩波書店、2011年、356-357頁。ISBN 978-4-00-024283-7。
- ^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、593頁。ISBN 4-89215-904-2。
- ^ a b c 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生2012』文化通信社、254-255頁。ISBN 978-4-636-88519-4。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 笠原和夫、荒井晴彦、絓秀実『昭和の劇:映画脚本家笠原和夫』太田出版、2002年、556-569頁。ISBN 4-87233-695-X。
- ^ a b c d 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年、106-107頁。ISBN 978-4-10-460901-7。
- ^ 株式会社 経済界 会社案内|創業者紹介 、雨の青山斎場|佐藤有美オフィシャルブログ「虎ノ門で働くオンナ社長」2011-05-11
- ^ a b c d e 中野忠良「遂に破綻した東映・岡田茂22年間の"狂気の経営"」『実業往来』1993年9月号、実業往来社、34頁。
- ^ a b c d e f 澤井信一郎、鈴木一誌『映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法』ワイズ出版、2006年、308-320頁。ISBN 978-4-89830-202-6。
- ^ a b c d e f 桂千穂、北里宇一郎、北川れい子『多重映画脚本家 桂千穂』ワイズ出版、2005年、227-230頁。ISBN 4-89830-186-X。
- ^ a b 「東映・高岩淡専務夏の大作『福沢諭吉』を語る 『おのおの方、ご油断召さるな!!』」『AVジャーナル』1991年6月号、文化通信社、32–37頁。
- ^ a b c d e 桂千穂「桂千穂の映画館へ行こう ―創り手たちの映画評 ゲスト・大野武雄 浦崎浩實」『シナリオ』2011年7月号、日本シナリオ作家協会、51頁。
- ^ a b c d 『映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法』、321-326頁
- ^ 「特集 福沢諭吉」『キネマ旬報』1991年8月下旬号、61-67頁。
- ^ a b talk & interview - _... moment ...._: 仙元誠三
- ^ 山根貞男「澤井信一郎『福沢諭吉』」『映画の貌』みすず書房、1996年、192-193頁。ISBN 4-622-04412-9。(初出:『アサヒグラフ』1991年9月6日号)