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福山志料

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福山志料(ふくやましりょう)は、菅茶山らにより編纂され、江戸時代後期に成立した備後福山藩の地誌。

概要

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備後福山藩阿部正精菅茶山や鈴木宜山らに編纂を命じた、公式の地誌。治下各郡の名勝古跡・寺社仏閣、偉人傑士、孝義節婦、史伝などを採録し、1809年文化6年)に成立した。

成立経緯

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1805年(文化2年)[注釈 1]加判の吉田豊功を長とし、大目付の中山光昭、徒目付の枝與市房、藩学教官の鈴木宜山に加え、特命により菅茶山らに編纂が命じられた。事実上は菅茶山の労にまつわるところが大きかったとされる[1]

1809年(文化6年)春に完成し、吉田豊功の敬書『上福山志料啓』を副えて藩主に奉呈された。

構成・内容

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全35巻から成る。引用書目は総計320部に及ぶ。

邑里(村落)は、概要(位置、特徴、村名の由来)、田畝、歳額(石高)、戸口(世帯、人口)、畜(牛、馬)、溝渠、池塘、堤閘、橋彴、山渓、廟墓、塔寺(寺院、憩亭)、古蹟の順に整理されている。また人物は偉人傑士のほか、在野の知識人・文化人、一般庶民からも孝義節婦が紹介されている。

備後福山藩地治下には既に『備陽六郡志』や『西備名区』が存在し、両書は『福山志料』編纂に際しても最も貴重な資料として用いられたとされる。『西備名区』著者である馬屋原重帯が「其比菅先生、福山府志を選まれしかは、此拙稿をも乞い申されし故、申しおきぬ」と述べたように、『西備名区』の寄与するところは大きく、ところによっては『西備名区』の原文がそのまま引用されている[2]

郷土史家の村上正名は、藩主の権威を以って編纂しただけに資料も余すところがなく得難いものも数多いと評価した[3]。また、引用書目の中に郷土史書の類が多い点につき、江戸時代中期以降学問が一般に普及し、しかも尚古的な傾向が流行した時代背景を指摘している[3]

目次・巻号

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  • 巻第一 - 総叙一 国郡名号 形勝 気候 祥異 風俗
  • 巻第二 - 総叙二 租調
  • 巻第三 - 総叙三 名官 自吉備津彦命至大神庸主
  • 巻第四 - 総叙四 名官 自藤原山蔭至浅山条就
  • 巻第五 - 総叙五 名官 自山名時氏至曲淵市郎右衛門、流寓 自素尊至僧忍剛
  • 巻第六 - 総叙六 人物 自脚摩乳至源忠義
  • 巻第七 - 総叙七 人物 自杉原信平至三吉覚弁
  • 巻第八 - 総叙八 人物 自三好修理亮至内藤右馬介
  • 巻第九 - 総叙九 人物 自水野勝成至僧沖黙
  • 巻第十 - 総叙十 人物 自三島昌清至藤井孝蔵
  • 巻第十一 - 邑里 一 福山治下
  • 巻第十二 - 邑里 二 深津郡 自吉津村奈良津村
  • 巻第十三 - 邑里 三 深津郡 自引野村至上岩成
  • 巻第十四 - 邑里 四 安那郡 自上竹田至平野村
  • 巻第十五 - 邑里 五 安那郡 自川北村至西法成寺
  • 巻第十六 - 邑里 六 品治郡 自下山守至近田村
  • 巻第十七 - 邑里 七 品治郡 自戸手村至服部本郷
  • 巻第十八 - 邑里 八 宮内村
  • 巻第十九 - 邑里 九 蘆田郡 自福田村至土生村
  • 巻第二十 - 邑里 十 蘆田郡 自中須村至荒谷村
  • 巻第二十一 - 邑里 十一 蘆田郡 自藤尾村至目崎村
  • 巻第二十二 - 邑里 十二 沼隈郡 自郷分村至山波村
  • 巻第二十三 - 邑里 十三 沼隈郡 自佐波村至下山南
  • 巻第二十四 - 邑里 十四 沼隈郡 自柳津村走島村
  • 巻第二十五 - 邑里 十五 鞆津
  • 巻第二十六 - 邑里 十六 鞆津
  • 巻第二十七 - 土産 一
  • 巻第二十八 - 弁説 一 寺社
  • 巻第二十九 - 弁説 二 名勝雑事
  • 巻第三十 - 弁説 三 古戦場
  • 巻第三十一 - 附録 一 古文書
  • 巻第三十二 - 附録 二 古文書
  • 巻第三十三 - 附録 三 図絵
  • 巻第三十四 - 附録 四 図絵
  • 巻第三十五 - 附録 五 図絵

活字化

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明治以降、原本は東京阿部伯爵家が所有していた。郷土史家の得能正通が東京阿部伯爵家の事務を行っていた福山の晩翠舎を介して原本を借用の上謄写と活字化を行い[4][5]1910年(明治43年)4月に上下2冊として刊行された。彼が「而も其の計画及び費用は余の負擔にかかる。」と記しているように、得能正通自身が企画し、自費出版したものであった[6]

  • 1909年(明治42年)2月12日 - 得能正通が晩翠舎を訪問し家従と面会し、原本借用を交渉[4]
  • 1909年(明治42年)6月25日 - 原本が晩翠舎経由で得能正通に貸し出され、謄写開始[5]
  • 1909年(明治42年)10月15日 - 巻第一から巻第十一までの原稿を印刷所(大阪龍雲舎)に送付[6]
  • 1910年(明治43年)4月30日 - 友人の石井貞之介の名で刊行[6]

脚注

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出典

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  1. ^ 福山市史編纂委員会、1968年、860頁
  2. ^ 福山市史編纂委員会、1968年、865頁
  3. ^ a b 村上正名、1975年、233頁
  4. ^ a b 得能正通年譜(1)、30頁
  5. ^ a b 得能正通年譜(1)、31頁
  6. ^ a b c 得能正通年譜(1)、32頁

注釈

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  1. ^ 濱本鶴賓は、1806年(文化3年5月11日)としている。

参考文献

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  • 濱本鶴賓『福山の今昔』、1917年(大正6年)4月26日<備後文化研究会、1978年(昭和53年)8月8日補訂復刻>
  • 福山市史編纂委員会『福山市史<中巻>』、1968年(昭和43年)3月21日
  • 村上正名『備後物語』、1975年(昭和50年)3月15日、二葉出版印刷部
  • 福山城博物館友の会『古文書調査記録第24集得能正通年譜(1)』、2008年(平成20年)9月