福原吉春
個人情報 | |
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国籍 | 日本 |
生誕 | 1942年2月10日 北海道磯谷郡 |
死去 | 1975年9月23日 (33歳没) 新潟県中頸城郡 |
スポーツ | |
競技 | アルペンスキー |
福原 吉春(ふくはら よしはる、1942年(昭和17年)2月10日 - 1975年(昭和50年)9月23日?)は、日本のアルペンスキーヤー。
経歴
[編集]北海道磯谷郡蘭越町出身。北海道倶知安農業高等学校から明治大学に進み、大学3年時の1963年に第41回全日本スキー選手権大会アルペンスキー競技に滑降と回転の2種目で優勝する[1][注釈 1]。1963年、北海道スポーツ賞を受賞する[2]。
1964年1月19日、オーストリアで開かれたゴルデック国際スキー大会の回転競技で優勝する[3]。同年、オーストリアチロル州のインスブルックで開かれた第9回オリンピック冬季競技大会に出場した。成績は滑降が45位、回転が23位、大回転が25位であった[4][5]。
1965年1月にスイスで開かれたラウバーン国際スキー大会において、男子滑降で43位、男子回転レースで14位に終わる[6]。
1966年、第44回全日本スキー選手権大会アルペンスキー競技に滑降と回転の2種目で再び優勝する[1][注釈 2]。同年2月12日、イタリアのトリノで開かれたユニバーシアード冬季大会の男子滑降で11位となる[7][注釈 3]。同年8月10日、チリのポルティーヨで開かれたアルペンスキー世界選手権の男子大回転競技で36位となる[9]。
1967年2月11日、イタリアのタルヴィージオで開かれたタオスタ杯国際アルペンスキー大会回転競技で13位に終わった[10]。
1968年、フランスイゼール県のグルノーブルで開かれた第10回オリンピック冬季競技大会に出場する。成績は滑降が54位、回転が失格、大回転が50位であった[4][11]。所属していたゴールドウィンを退社し同年6月、日本で初めてプロ・スキー・レーサー協会に入りプロへ転向した[12]。
1975年10月3日午前8時頃、福原が新潟県中頸城郡妙高高原町にある「福原プロスキー学校」で死んでいるのを学校の留守番の人が発見した。警察の調べによると、福原は知人の借金の肩代わりやスキー学校の経営難を苦にしたガス自殺であり、9月23日頃に死亡したとされている[13][14]。
関連作品
[編集]- 近藤日出造「世界の強豪に若さでいどむ 日出造対談」『週刊読売』第27巻第54号、読売新聞社、1968年12月、88-95頁、NDLJP:1814057。
- 今野順哉『二人のオリンピアン 福原吉春 気田義也』らんこし作家デビュー・プロジェクト、2014年11月 。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d “全日本スキー選手権大会 アルペン/第34回(1956年)~第54回(1976年)”. 公益財団法人全日本スキー連盟. 2020年5月25日閲覧。
- ^ “北海道スポーツ賞” (PDF). 北海道環境生活部スポーツ局スポーツ振興課. 2020年5月25日閲覧。
- ^ 「福原 回転に優勝 ライトナーを押さえる ゴルデック国際スキー」『朝日新聞』1964年1月20日、6面。
- ^ a b “オリンピック出場選手全記録” (PDF). 公益財団法人全日本スキー連盟. 2020年5月25日閲覧。
- ^ “連載17 記録に見る日本のスキー競技史1923年、日本のスキー競技ははじまった”. 公益財団法人全日本スキー連盟 (2008年11月13日). 2020年5月25日閲覧。
- ^ 「福原回転で14位 ラウバーホーン国際スキー」『朝日新聞』1965年1月11日、12面。
- ^ 「滑降で福原は11位 ユニバーシアード」『朝日新聞』1966年2月13日、13面。
- ^ 「期待の福原は失格 男子回転 優勝はバヘレダ ユニバーシアード冬季大会」『朝日新聞』1966年2月10日、13面。
- ^ 「福原は36位 世界アルペン」『朝日新聞』1966年8月11日、6面。
- ^ 「福原選手が13位 タオスタ杯回転」『朝日新聞』1967年2月13日、13面。
- ^ “連載19 記録に見る日本のスキー競技史1923年、日本のスキー競技ははじまった”. 公益財団法人全日本スキー連盟 (2008年11月28日). 2020年5月25日閲覧。
- ^ 「新しいプロ 福原吉春選手の場合 まず生活の安定 「世界」を相手に外貨獲得」『朝日新聞』1968年12月22日、13面。
- ^ 「元五輪選手の福原さん自殺 スキー学校が経営難」『朝日新聞』1975年10月5日、23面。
- ^ 「元五輪選手の福原さん自殺 スキー学校経営に行き詰まり」『読売新聞』1975年10月6日、22面。