神野金之助 (2代目)
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かみの きんのすけ 神野 金之助 | |
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生誕 |
1893年1月4日 日本愛知県名古屋市鉄砲町[1] |
死没 |
1961年10月23日(68歳没) 日本 |
国籍 | 日本 |
別名 | 神野重孝(本名)[1] |
神野 金之助(かみの きんのすけ、1893年(明治26年)1月4日 - 1961年(昭和36年)10月23日)は、愛知県名古屋市中区出身の実業家。俳号・渓石[2]。
人物
[編集]1893年(明治26年)1月4日、名古屋市中区鉄砲町生まれ[1]。初代神野金之助の長男[3]。幼名は金重郎、本名は重孝[1]。第八高等学校を卒業したのち、京都帝国大学法学部に進学するも、中退した[1]。その後、紅葉屋財閥の当主となる[1]。
1923年(大正12年)、名古屋鉄道役員となり、1935年(昭和10年)副社長、1945年(昭和20年)社長となった[1]。
1924年(大正13年)、名古屋無電放送として日本初の放送事業を出願し、1925年(大正14年)に社団法人名古屋放送局の設立に関わった[1]。翌年、日本放送協会設立委員に就任する[1]。
1950年(昭和25年)、日本放送協会経営委員に就任[2]。
1954年(昭和29年)名古屋テレビ塔の建設や1958年(昭和33年)に東海テレビ放送設立に関わる[1]。
その他、名古屋製陶所・福壽生命・愛知時計電機・遠州電気鉄道・明治銀行・東邦ガス・愛知機械・名古屋空港ビルなど様々な役員を兼務した[2]。
著作
[編集]- 『矢車』枯野社、1925年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 渡辺勝己「神野金之助重孝」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、237-238頁。