コンテンツにスキップ

石黒貞蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石黒 貞蔵
生誕 1887年10月15日
日本の旗 日本鳥取県
死没 (1950-01-08) 1950年1月8日(62歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

石黒 貞蔵(いしぐろ ていぞう、1887年明治20年〉10月15日[1][2] - 1950年昭和25年〉1月8日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

鳥取県出身[1][2][3]鳥取中学校を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第40連隊付となる[1][4]。歩兵第40連隊中隊長、陸軍歩兵学校教導連隊中隊長などを経て、1924年(大正13年)3月、歩兵少佐に昇進し歩兵学校教官となる[1]

陸軍戸山学校教官、歩兵学校教導連隊大隊長、下志津陸軍飛行学校教官、歩兵学校教官などを歴任し、1929年(昭和4年)8月、歩兵中佐に進級し歩兵第1連隊付となる[1]豊橋陸軍教導学校学生隊長、関東軍司令部付(満州国軍政部顧問、次いで憲兵訓練処顧問)を経て、1934年(昭和9年)8月、歩兵大佐に昇進[1][3]

1936年(昭和11年)3月、歩兵第2連隊長に就任。1938年(昭和13年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長となる[1][2][3]豊橋陸軍予備士官学校長兼教導学校長を経て、1940年(昭和15年)8月、陸軍中将に進み新設の第28師団長に親補され、満州に駐屯[1][2][3]1943年(昭和18年)3月、第6軍司令官となり、次いで第29軍司令官としてマレー半島に赴任し終戦を迎えた[1][2][3]1946年(昭和21年)7月に復員[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

[編集]
位階
勲章

親族

[編集]
  • 息子 石黒琢郎(陸軍大尉、戦死)[1]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、17頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』64頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』244頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』238、244頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  6. ^ 『官報』第1115号「叙任及辞令」1916年4月22日。
  7. ^ 『官報』第1434号「叙任及辞令」1931年10月8日。
  8. ^ 『官報』第1346号「叙任及辞令」1917年1月30日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  10. ^ 『官報』第4531号「叙任及辞令」1942年2月18日。
  11. ^ 『官報』第5664号「叙任及辞令」1945年11月28日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年