石田貫之助
表示
石田貫之助 いしだ かんのすけ | |
---|---|
生年月日 | 1850年1月13日 |
出生地 |
日本 但馬国朝来郡新井村 (現・兵庫県朝来市) |
没年月日 | 1934年10月8日(84歳没) |
所属政党 |
(立憲改進党→) (愛国公党→) (立憲自由党・自由党→) (憲政党→) 甲辰倶楽部 |
称号 | 正五位 |
選挙区 |
(兵庫県第4選挙区→) (兵庫県第2選挙区→) 兵庫県郡部選挙区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1890年 - 1897年12月25日 1898年 - 1902年8月9日 1904年 - 1908年3月27日 |
第6代 富山県知事 | |
在任期間 | 1897年4月7日 - 1898年2月5日 |
第3-9代 兵庫県会議長 | |
在任期間 | 1881年2月 - 1890年7月 |
在任期間 | 1880年5月 - 1881年2月 |
選挙区 | 美嚢郡選挙区 |
石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永2年12月1日[1])- 1934年(昭和9年)10月8日[2])は、明治から大正期の政治家。兵庫県会議員、衆議院議員、富山県知事。旧姓は太田垣。
経歴
[編集]但馬国朝来郡新井村の農業・酒造業の太田垣家に生まれ、石田小治郎の養子となる[1][3]。
1879年に兵庫県会議員となり[3]、1880年5月から1881年2月まで同副議長を、同月から1890年7月まで同議長を務めた[4]。また、同郡部会議長、同常置委員など務めた[2]。立憲改進党に加わり、さらに愛国公党の創立委員となり、次いで自由党に入党した[1]。
1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に兵庫県第四区から出馬して当選。その後、第4回総選挙まで連続4回当選し、さらに第6回、第9回総選挙でも当選し、通算6回の当選を果たした[2]。
1897年4月7日、第2次松方内閣により富山県知事に登用され、1898年2月5日まで在任した[1][5]。
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。