石田玄圭
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石田 玄圭(いしだ げんけい、? - 1817年7月20日(文化14年6月7日))は、江戸時代の医師、和算家(数学者)、暦学者である[1][2][3]。名は恒[2][4]。一徳子[4]、斑亭と号した[2]。榛名神社に奉納した算額が群馬県の重要文化財、墓が群馬県の史跡に指定されている[5]。なお娘婿の福島和一、孫の玉喜も石田玄圭を名乗り医業を継いだ[6]。
生涯と業績
[編集]上野国佐位郡(後の群馬県佐波郡)に生まれる[1][7][8]。武蔵国熊谷の三浦無窮(青渓)から医学を学び、群馬郡高井村(現在の群馬県前橋市高井町)で医師として開業した[1][9]。そのかたわらで江戸で藤田貞資に和算を学び、1803年(享和3年)関流五伝の免許を得た[1][7][10]。医学・和算の他に天文学・暦学にも精通し、研究と門人の教育につとめた[1]。門人には群馬郡棟高村(現・高崎市棟高町)の坂本丹治亮春などがいる[2][11]。1787年(天明7年)と1810年(文化7年)に八幡八幡宮、1811年(文化8年)に榛名神社に門人と連名で算額を奉納している[12][11]。
著作に『授時暦精正』(天明元年)、『暦学小成』(天明7年)などがある[13][14][15]。『暦学小成』は幕府に目をつけられて絶版にされている[16]。1817年7月20日(文化14年6月7日)没[2][9]。群馬県前橋市高井町1丁目34-12にある「斑亭一惠居士」と記された墓が玄圭のものとされている[1]。
墓は1951年(昭和26年)に群馬県の史跡に指定されている[5][4]。1811年(文化8年)の算額は1976年(昭和51年)に群馬県の重要文化財に指定されている[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 総社・清里の文化財を訪ねて前橋市 水と緑と詩のまち 2017年11月2日閲覧[リンク切れ]
- ^ a b c d e 石田玄圭コトバンク 2017年11月2日閲覧
- ^ 丸山 1972, pp. 178–179.
- ^ a b c 丸山 1972, p. 213.
- ^ a b c 群馬県内の県指定文化財一覧群馬県 2017年11月2日閲覧[リンク切れ]
- ^ 丸山 1972, pp. 214–215.
- ^ a b 群馬県史編さん委員会 1992, p. 390.
- ^ 丸山 1972, pp. 179–180.
- ^ a b 前橋市史編さん委員会 1975, pp. 908–911.
- ^ 前橋市史編さん委員会 1975, p. 917.
- ^ a b 群馬県史編さん委員会 1992, p. 399.
- ^ 高崎の算額 リスト高崎・和算愛好会 2017年11月2日閲覧
- ^ 群馬県史編さん委員会 1992, p. 389.
- ^ 前橋市史編さん委員会 1975, p. 919.
- ^ 丸山 1972, p. 201.
- ^ 近世上毛偉人伝国立国会図書館デジタルコレクション 2017年11月2日閲覧
参考文献
[編集]- 丸山, 清康『上毛の和算』みやま文庫〈みやま文庫47〉、1972年9月1日。doi:10.11501/12608783。(要登録)
- 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編6 近世3、群馬県、1992年1月28日。doi:10.11501/9644587。(要登録)
- 前橋市史編さん委員会 編『前橋市史』 3巻、前橋市、1975年10月1日。doi:10.11501/9640816。(要登録)