石母田定頼
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和5年(1619年) |
死没 | 慶安3年5月20日(1650年6月18日) |
改名 | 綱頼→定頼 |
別名 | 菊助、長門、大膳亮 |
戒名 | 徳興院竜泉活公居士 |
墓所 | 黄金寺(宮城県栗原市) |
主君 | 伊達政宗→忠宗 |
藩 | 仙台藩 |
氏族 | 石母田氏 |
父母 | 父:石母田宗頼、母:石母田景頼の二女 |
兄弟 | 定頼、女子(遠藤康信室→宮内定清室)、女子(伊達国隆室) |
妻 | 正室:沼辺重仲の娘 |
子 | 永頼、頼為、頼章、女子(遠藤俊信室) |
石母田 定頼(いしもだ さだより)は、江戸時代の武士。仙台藩重臣。
生涯
[編集]元和5年(1619年)、仙台藩重臣・石母田宗頼の嫡男として胆沢郡水沢城にて生まれる。幼名は菊助。
寛永6年(1629年)、奥山常良を烏帽子親として元服し、綱頼と名乗るが、正保元年(1644年)に片倉重長・富塚重信らと共に徳川家綱の諱を避けて定頼に改名する。
正保3年(1646年)10月、江戸詰めとなり、奉行職代行を命ぜられる。翌正保4年(1647年)5月、父・宗頼の死去にともない家督を相続して栗原郡岩ヶ崎城6,500石を継ぎ、同年12月には、将軍家への御礼のため、使者として江戸城に登城して徳川家光に拝謁し、呉服一重を拝領する。
慶安元年(1648年)10月には再び江戸詰奉行の代行を勤めたが、ほどなくして帰国し、忠宗の近習として仕えていたが、慶安3年(1650年)5月20日、仙台屋敷にて病没。享年32。嫡男・永頼が家督を相続した。
系譜
[編集]- 正室:自照院(沼辺重仲の娘)
- 石母田永頼 - 長男
- 石母田頼為 - 二男。別家を興すが一代で断絶
- 石母田頼章 - 三男。一族・桜目石母田氏初代当主
- 白 - 長女。早世
- 照光院 - 二女。遠藤俊信室
参考文献
[編集]- 編:大塚徳郎『仙台藩重臣石母田家文書』史料編(刀水書房、1981年)