石川陽造
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
愛媛県伊予三島市 (現・四国中央市) |
生年月日 | 1940年11月24日(84歳) |
身長 体重 |
175 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1962年 |
初出場 | 1962年 |
最終出場 | 1965年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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石川 陽造(いしかわ ようぞう、1940年11月24日 - )は、愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴
[編集]高松商では岡村浩二とバッテリーを組み、2年時の1957年に春の選抜へ出場。準々決勝まで勝ち進むが、倉敷工の渡辺博文に抑えられ敗退[2]。3年時の1958年には春季四国大会決勝で徳島商の板東英二と投げ合い、両者とも得点を許さぬまま延長25回まで進み、2-0で優勝を飾る。同年には夏の甲子園にも出場し、この大会でもベスト8まで進出したが、作新学院に延長11回敗退[3]。同年の富山国体にも出場、決勝まで進むがまたも作新学院に敗れる(日程が雨天順延で遅れ、決勝はオープン戦となり記録上は二校優勝)。2年下のチームメートに控え内野手であった山口富士雄がいる。
卒業後は岡村と共に立教大学に進学し、東京六大学野球リーグでは1年生の1959年春季リーグから活躍。同年秋季リーグでは立東3回戦でノーヒットワンランを記録、リーグ優勝に貢献する[4]。岡村以外の大学同期に太田紘一(2年で中退)、岡本凱孝がいた。
大学を3年で中退し、1961年暮れに東映フライヤーズへ入団。1年目の1962年に初登板を果たす。2年目の1963年には先発陣に入り、シュートを武器に自己最高の16勝を挙げる。同年はリリーフもこなし、球団最多の65試合に登板。オールスターゲームにも出場した[1]。翌1964年も先発として起用されるが、5勝に終わる。その後は登板機会が減少し、1966年からは二軍暮らしに終始し、1968年に引退。
引退後は元プロ野球選手の荒井健が開発した「鶴ヶ島ゴルフ倶楽部」の支配人になった[1]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1962 | 東映 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 13 | 3.0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 3.00 | 1.33 |
1963 | 65 | 23 | 11 | 2 | 1 | 16 | 13 | -- | -- | .552 | 1074 | 275.2 | 219 | 16 | 52 | 3 | 11 | 155 | 4 | 0 | 90 | 78 | 2.54 | 0.98 | |
1964 | 42 | 16 | 2 | 1 | 0 | 5 | 8 | -- | -- | .385 | 676 | 164.2 | 153 | 10 | 47 | 5 | 6 | 61 | 1 | 0 | 61 | 48 | 2.62 | 1.21 | |
1965 | 15 | 6 | 1 | 1 | 0 | 3 | 3 | -- | -- | .500 | 205 | 48.2 | 48 | 3 | 12 | 1 | 1 | 14 | 0 | 0 | 19 | 18 | 3.31 | 1.23 | |
通算:4年 | 124 | 45 | 14 | 4 | 1 | 24 | 24 | -- | -- | .500 | 1968 | 492.0 | 423 | 29 | 112 | 9 | 18 | 233 | 5 | 0 | 171 | 145 | 2.65 | 1.09 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 28 (1962年 - 1964年)
- 14 (1965年 - 1968年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 石川陽造 - NPB.jp 日本野球機構