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石川貞清

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石川 貞清
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 生年不詳
死没 寛永3年4月8日1626年5月3日
改名 光吉(初名)→三吉→貞清→宗林(号)
別名 石河、三吉、通称:兵蔵、備前守
法名:宗林
戒名 雲岳宗林大居士
墓所 妙心寺養徳院、龍安寺大珠院
官位 従五位下備前
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼→浪人→徳川秀忠
氏族 美濃石川氏
父母 父:石川光重[異説あり]
兄弟 [説1]光元[1]貞清貞信[2][1]
[説2]光元[3]貞清一光頼明
正室:石田三成の娘または大谷吉継の妹
室:おかね(真田信繁の七女)[異説あり]
側室:三栄妙伊[4]
宗玄、重正(宗雲)、重利、宗甫、女(大文字屋宗種室)、女(石川吉次室)、女(石川貞政室)
特記
事項
子は『石田三成とその一族』による[5]
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石川 貞清(いしかわ さだきよ)は、安土桃山時代武将大名豊臣氏の譜代の家臣。犬山城主。江戸時代前期の商人、後に江戸幕府御家人。初名は光吉、あるは三吉ともいった。晩年は剃髪して石川宗林を称し、茶人でもあった。

出自

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美濃国の出身。父や兄弟については諸説ある。

貞清(光吉)の父は石川光重(伊賀守)とされるが[1][6]、不明であるとするものがあったり、「石川一光の一族という」とするもの[7]もある。一光(貞友)にも父を石川家光[8]とするものと[9]、光重とするものがあり[3]、彼らの先祖である鏡島城石川光清の子と孫の代の系図に混乱があるため、判然としない部分があって説明がつかない。

貞清(光吉)の兄は光元[1]、弟は貞信(宗巴)[2]とされるが、『正法山誌』[10]では頼明(一宗)を弟とする説を載せている[11]。これは前述の一光の弟であるに頼明(一宗)の父も光重であるとした場合であり、これに従えば光元・貞清(光吉)・一光・頼明(一宗)が兄弟となるが、この場合、貞信が浮いてしまう。

父・光重とその兄光政については、その父を石川光信(光延)とするものがあり、同説をとる『妙心寺史』では光政・光重・功沢宗勲[12]を兄弟とする[3]。別説では、光政・光重・一光・頼明(一宗)が兄弟で、これに従えば一光・頼明(一宗)は、光元・貞清(光吉)・貞信の叔父にあたることになる。

説1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
説2
 
 
家光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光政(守桂)光重(宗鉄)一光(貞友)頼明(宗先)
 
 
 
光政(守桂)光重(宗鉄)功沢宗勲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞政(桂春)光元(宗薫)貞清(宗林)貞信(宗巴)
 
 
 
貞政(桂春)光元(宗薫)光吉(貞清)一光一宗(頼明)

略歴

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貞清は豊臣秀吉使番として仕え、金切裂指物使番に列せられた[13]

天正18年(1590年)の小田原の役、7月に北条氏政氏照兄弟が切腹した際、貞清と榊原康政が検使役を務めた[14]。この功で、尾張犬山城1万2千石を与えられ、同時に、信濃木曾太閤蔵入地10万石の代官も務めた[13]。(代官領地と併せて12万石)

天正19年(1591年)11月、秀吉の三河吉良での狩猟に随行。翌年の文禄の役の拠点となる肥前国名護屋城の普請工事を分担した[13]。戦役では秀吉の在陣中は、留守番衆の1つとして同城に駐屯した。

文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治では、逗留中の居館の建築と警固にあたる。

慶長4年(1599年)正月、豊臣秀頼の側近に列し、五大老五奉行の連署にて、貞清(備前守)・石田正澄(木工頭)・石川頼明(掃部頭)・片桐且元(東市正)の4人は、奏者番とされた[15]。同年秋頃、徳川家康より美濃金山城の天守櫓と家臣長屋の古材を譲り受けて、犬山城を改修した[13]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与し、家康からの降誘を拒否して、居城の犬山城稲葉貞通典通父子、稲葉方通加藤貞泰関一政竹中重門らと籠城した。しかし東軍の中村一忠一栄に攻められると、加勢の西軍将達は極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定して引き上げようとした。貞清も関一政に説得されて城を棄てて、西軍本隊に合流。本戦では、宇喜多隊の右翼、口北野付近に陣して奮戦した[16]

敗戦後、貞清は北山龍安寺に避難し、親族が住持を務める妙心寺に頼み、それを介して同じく妙心寺と所縁の深い東軍・池田輝政と渡りを付けて、大坂に入って池田の陣に投降した。改易されて所領を没収の上で、死罪を申し渡されるところだったが、犬山籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価されたのと、池田輝政の働きかけにより、黄金千枚で助命された[17]

なお当時の書状に従えば、貞清は犬山城調略の時点で東軍に属しており、それを秘したまま西軍に留まり関ヶ原方面に移動、東軍へ情報を流していた。しかし関ヶ原合戦本戦に至る状況の急変で離脱の機会を失い、そのまま西軍として合戦に参加せざるを得なかったとされる。

で隠棲し、剃髪して宗林と号し、茶人商人(金融業)として余生を過ごしたが、慶長18年(1613年)12月5日、幕府に扶持米500石を給されて召抱えられたと『徳川除封録』にある。このため最晩年は幕府家人[17]であった。この扶持米について、白川亨は宗林が石川光忠へ行った支援に対しての、光忠の生母で徳川家康の側室となっていたお亀の方からの報恩の意味が含まれているのではないかとしている[20]

寛永3年(1626年)に死去。子孫は商人となった。

家族・親族

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父について

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前述のように父については異説があるが、石川光重は秀吉の側近六人衆[21]の1人であり、豊臣鶴松の傳役であった。貞清も秀頼の側近に指名されている。光重の兄にあたる光政は『竹生島奉加帳』にも上位に名があり、一族は秀吉創業以来の譜代衆であった。

妻について

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貞清は、『正法山誌』では石田三成の婿とされており[22]、『稿本石田三成』でも石田三成の娘を妻としたとしている[23]

しかし、同じ『正法山誌』によれば、石川頼明が貞清の弟とされており、白川亨は、頼明の兄である一光も貞清の弟と考え、一光が天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで奮戦していることなどから推測して、貞清と石田三成は同年代であり、末弟の頼明の妻が石田三成の義妹(宇多頼忠の娘)であることからきた誤説と主張している[24]。『尾張藩石河系図』[26]によれば、貞清の妻は大谷吉継の妹とされており、寛永8年(1631年)7月24日に没した。法名は竜光院殿月舟寿泉大禅定尼[27]

真田氏の記録には、真田信繁の七女・おかねを貞清が妻としたとされている[28]。 しかし、これについても『尾張藩石河系図』では貞清ではなく、その嫡男である重正(藤右衛門・宗雲)の妻とされている。龍安寺塔頭大珠院に墓碑があり、明暦3年(1657年)8月24日に没。法名は真厳一院法楽宗蓮大姉[29][30]

真田信繁との関係

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貞清の妻は前述のとおり、石田三成の娘か大谷吉継の妹であり、前者ならば一族の頼明の妻と石田三成の妻が姉妹、そして一説に真田昌幸の妻・山手殿も姉妹であり、山手殿の出自が異なる場合も昌幸の娘が三成の一族の宇田頼次に嫁いでいるので、貞清は真田信繁と親戚となる。後者ならば、貞清の妻は、信繁(幸村)の正室(大谷吉継の娘)竹林院の叔母にあたる。よっていずれの場合も親類であった。

また、(秀吉直参であった)信繁は名護屋城馬廻衆の頃、石川光元(紀伊守)を頭とする組(一番石川組)に属しており、貞清ともこの頃から顔見知りであった可能性がある[31]

信繁の七女・おかねは、前述のとおり、貞清の妻、または嫡男・重正の妻(貞清からは嫁)とされている。おかねの婚姻時期は、すでに大名時代の石川貞清ではなく、金融業を営み、茶人となった宗林の頃[32]と考えられる。貞清は、大坂の陣で信繁が戦死した後、竹林院(おかねの母)を京に引き取り、一緒に暮らして援助したと伝えられる。また、後年、貞清は大檀那であった京都市右京区竜安寺塔頭大珠院に、信繁夫妻の墓と五輪塔を建てさせてその一族を供養した。

子孫

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孫にあたる石河[33](石川)自安[36]は、京の豪商であったが、薩摩藩島津家熊本藩細川家などに大名貸をし、「断わり」という借金の踏み倒しに巻き込まれ破産してしまったと、享保年間に三井高房が書いた『町人考見録』に記されている。

其先祖は、尾州犬山の城主にて有りしが、関ヶ原の御陣の頃か、如何のわけにや、金銀財宝等を白昼に持運びて、京帥に立退き、浪人致候由、然るに此石河が門葉多、其内自安惣領家のよしにて、専栄耀にて暮す所に、七八十年已前薩州細州などをはじめ、其外西国の御大名方多く借銀の断有之に付、彼石河も大名借にて渡世致候故、其節身上潰れ申候 — 町人考見録[37]

また、京にあった茶道具の名物は、当時その多くを石河家が所有していたという[37]。自安が所蔵した茶道具の一つ、古瀬戸茶入「鎗の鞘」肩衝は、もともと豊臣秀吉の所有で、石川備前守(貞清)が伏見奉行の功を賞されて賜ったものと伝えられている[34][38]

妙心寺

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美濃石川氏は京都妙心寺に関わりが深く、宗林(貞清)は妙心寺の東北部の塔頭、大雄院・桂春院・韶陽院等の造営に際して土地を寄進している。このため、妙心寺より正月11日に石川家に年賀の挨拶状を送ることが通例だったという[39]。元和元年(1615年)の大坂城落城後、妙心寺の石川貞清の元を訪れ面会した福島正則は、貞清から妙心寺内の土地の一部を譲り受けて海福院を建立し、死者の冥福を祈った。

脚注

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  1. ^ a b c d 小和田 & 他 2003, p. 116-117
  2. ^ a b 石川貞信」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E4%BF%A1コトバンクより2020年7月10日閲覧 
  3. ^ a b c 川上 1917, p.261
  4. ^ 白川(1997)、p.287
  5. ^ 白川(1997)、p.286-287
  6. ^ 『正法山誌』第一巻,人物,石川宗林「石川宗林者石川伊賀守之子。」
  7. ^ 石川貞清」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E6%B8%85コトバンクより2020年7月10日閲覧 
  8. ^ 家光は光信と同一人物かその兄弟と考えられる。
  9. ^ 高柳 & 松平 1981, pp.30-32
  10. ^ 京都妙心寺の寺誌。
  11. ^ 『正法山誌』第九巻,正法山妙心禪寺塔頭,東海庵「石川掃部。建東海庵。石川伊賀守〔梅甫宗鉄居士〕宗鉄之子。名石川備前守〔法名雲岳宗林〕宗林之弟。名石川掃部〔法名機岩宗先〕。」
  12. ^ 妙心寺六十七世。自伝では光重の兄というが、光政を入れた順序は不明。
  13. ^ a b c d 高柳 & 松平 1981, p.30
  14. ^ 桑田 1971, p.101
  15. ^ 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本戦史. 関原役文書』元真社、1911年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771070/13 国立国会図書館デジタルコレクション 
  16. ^ 参謀本部 編「国立国会図書館デジタルコレクション 石川貞清三成ノ陣ニ赴ク」『日本戦史. 関原役』元真社、1911年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/131 国立国会図書館デジタルコレクション 
  17. ^ a b 高柳 & 松平 1981, p.31
  18. ^ 白川(1997)、p.282-283
  19. ^ 『妙心寺史 上巻』p259
  20. ^ 石川光忠は、光元とお亀の方の子であるが、生まれて間もなく母は実家に帰され、父は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで改易され、翌年死去した。このとき光忠は8歳であった。母が徳川家康の側室となった縁で、光忠は慶長13年(1608年)に召し出されるが、この間の慶長8年(1603年)に父・光元のため妙心寺に大雄院を建立し、その土地は宗林が寄進している。また、開祖となった僧・慧南玄譲の招請も10歳の光忠に代わり宗林が行っており、両者の親しい関係がうかがえる[18][19]
  21. ^ 寺沢広政、伊藤秀盛、蒔田久勝、石川光重、一牛斎、小出秀政の六人で、秀吉の初期の統治において多数の連署状を残している。
  22. ^ 『正法山誌』第一巻,人物,石川宗林「宗林者石田治部少輔之婿也。」、同第九巻,正法山妙心禪寺塔頭,寿聖院「伊賀守之子宗林者。治部之聟也。」
  23. ^ 渡辺世祐「国立国会図書館デジタルコレクション 第二節 その子孫」『稿本石田三成』雄山閣、1929年、340頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/92 国立国会図書館デジタルコレクション 
  24. ^ 白川(1997)、p.272-275、p.277
  25. ^ 太田亮『国立国会図書館デジタルコレクション 姓氏家系大辞典』 第1、姓氏家系大辞典刊行会、1936年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/234 国立国会図書館デジタルコレクション 
  26. ^ 尾張藩重臣の石河家の系図。石川光元の子である石川光忠の子孫。忠喜の代に石川(いしかわ)から石河(いしこ)に読みを変えている。また、光重の兄光政の長男貞政は、それ以前の『寛政重脩諸家譜』作成時に石川から石河に漢字を変えている。[25]
  27. ^ 白川(1997)、p.277
  28. ^ 小林計一郎 編『真田幸村のすべて』新人物往来社、1989年、96-97頁。ISBN 440401614X 
  29. ^ 『尾張藩石河系図』では真厳院殿法楽宗蓮大姉。
  30. ^ 白川(1997)、p.259
  31. ^ 黒田基樹『「豊臣大名」真田一族』洋泉社、2016年、58頁。 
  32. ^ 小和田哲男『「城内における真田幸村」「真田幸村の遺児」』(Kindle)学研〈歴史群像デジタルアーカイブス<大坂の陣>〉、2014年。 ASIN B00MN845XU
  33. ^ 「いしこ」と読む。
  34. ^ a b 『日本歴史大辞典.第9巻』p417「鎗の鞘肩衝」、河出書房新社, 1985年
  35. ^ 『茶道人名辞典』p20「石川自安」、東京堂出版、1982年
  36. ^ 養孫であり旧姓後藤[34]で、石川宗雲(重正)の養子。茶湯を千宗旦に学び、久須美疎安京極安智とともに岡崎三老と呼ばれた[35]
  37. ^ a b 三井高房「国立国会図書館デジタルコレクション 町人考見録」『徳川時代商業叢書 第一』国書刊行会、1929年、156頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1755654/91 国立国会図書館デジタルコレクション 
  38. ^ 「鎗の鞘」は、自安の後、次代藤右衛門が井筒屋河井休貞へ譲渡、三井八郎右衛門を経て、松平不昧が購入した。
  39. ^ 『妙心寺史 上巻』p260

参考文献

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