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石光真臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石光いしみつ 真臣まおみ
生誕 1870年6月7日明治3年5月9日
日本の旗 日本 熊本藩託麻郡本山村
(現:熊本県熊本市中央区
死没 (1937-12-08) 1937年12月8日(67歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1888年 - 1925年
最終階級 陸軍中将
指揮 東京南部警備司令官
第1師団
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石光 真臣眞臣)(いしみつ まおみ、1870年6月7日明治3年5月9日) - 1937年昭和12年)12月8日)は、日本陸軍軍人。陸軍中将従三位勲一等功四級日露戦争時の諜報活動で知られる石光真清は兄。

略年譜

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- 熊本県託麻郡本山村(現・熊本市中央区)に旧熊本藩・石光真民(100石[1])、守家の子として生まれた。
- 陸軍幼年学校卒業 野戦砲兵第2連隊入隊
- 陸軍士官学校卒業(1期[2])、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期砲兵科1番/19名で卒業している。
- 陸軍砲兵少尉
- 陸軍大学校卒業(14期)
- ドイツに留学(-1904年4月) 分家して一家を創立する
- 第十連隊大隊長
- 旅順要塞参謀
- 陸軍少将 支那駐屯軍司令官として天津に在勤
- 憲兵司令官
- 陸軍中将
- 馬政局長官
- 第1師団
- 関東大震災の際、帝都警備の為、東京南部警備司令官として活躍
- 予備役
- 胃癌により死去 東京都府中市多磨霊園にある

栄典

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位階
勲章等

家族・親族

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系譜

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  • 石光家
石光家は身分の軽い武士であったが、細川家肥後入国の時からお供をした家柄であり、代々殿のお側に奉仕していたため特別の取り扱いを受けていた[13]
            
              東季彦
 ┏栃原知定         ┃
 ┃      ┏石光真澄  ┣━━━東文彦
 ┗守家    ┃      ┃ 
   ┃    ┣石光真清━菊枝
   ┣━━━━┫      
   ┃    ┣石光真臣 
┏石光真民   ┃
┃       ┗真津
┃         ┃
┗野田豁通     ┣━━━橋本龍伍━┳橋本龍太郎
          ┃        ┃
        橋本卯太郎      ┗橋本大二郎

       

脚注

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  1. ^ 秦 2005, p. 18, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:石光真臣
  2. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、106頁。 
  3. ^ 『官報』第2576叙任及辞令」1892年2月4日。
  4. ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
  5. ^ 『官報』第3862号「敍任及辞令」1896年5月16日。
  6. ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
  7. ^ 『官報』第3888号「叙任及辞令」1925年8月8日。
  8. ^ 『官報』第3749号「叙任及辞令」1895年12月25日。
  9. ^ 『官報』第2046号「叙任及辞令」1919年5月31日。
  10. ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
  11. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  12. ^ 子は政治家になった橋本龍太郎(元総理大臣)、橋本大二郎(元高知県知事)兄弟
  13. ^ 石光真清『城下の人』中公文庫、17頁

参考文献

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外部リンク

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