石井忠清
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文22年(1553年) |
戒名 | 法泉院殿浄鑑日清大居士 |
墓所 | 佐賀県佐賀市 常照院 |
官位 | 和泉守(受領名) |
主君 | 千葉興常→龍造寺康家→家兼→隆信 |
氏族 | 肥前石井氏(藤原氏) |
父母 | 父:石井忠義、母:金持保広の娘 |
兄弟 | 忠清、忠繁、義昌、忠本、兼清 |
妻 |
正室:飯盛肥前守の娘 継室:龍造寺家純の娘 |
子 | 常延、忠家、忠信、垂井某室、山田治部少輔室、伊東家秀室 |
石井 忠清(いしい ただきよ)は、戦国時代の武将。九州千葉氏次いで龍造寺氏の重臣。石井駿河守忠義の嫡男。肥前国佐嘉郡飯盛城主。
来歴
[編集]生年は不明。
当初、父駿河守忠義と共に、肥前国小城郡司千葉氏の戚臣であったが、佐嘉郡を根拠とした有力国衆龍造寺氏の台頭に伴って、盟友鍋島氏と共にこれを支持した。
享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは、鍋島清久・清房父子と共に、赤熊毛を被り、鬼面を着けた奇襲隊を指揮して、龍造寺家兼隊の危機を救い、その勝利に貢献する。これを契機に、龍造寺家純の四女を継室に迎え、鍋島氏と共に龍造寺氏の重臣に列せられることになった。
龍造寺家兼および隆信が、国衆や家臣の叛乱により、佐賀城を追われて、筑後国に亡命した際にも、鍋島氏と共に、龍造寺氏の再興を図って挙兵するなど、龍造寺氏興隆期の功臣として重きをなした。
実弟石見守忠繁、三河守義昌、駿河守忠本、尾張守兼清(忠房)と共に「石井党」という同族武士団を形成し、一門繁栄の礎を築いた。
なお、孫に陽泰院彦鶴姫(嫡男・兵部少輔常延の次女)がおり、佐賀藩祖鍋島直茂の正室に迎えられ、初代藩主鍋島勝茂の生母となる。
なお、同じ諱の石井蔵人忠清は、和泉守忠清の実弟・駿河守忠本(石井四男家)の子である。
系譜
[編集]石井嫡男家(嫡家)系譜
①石井和泉守忠清ー②兵部少輔常延ー③刑部少輔常忠ー④大膳亮信易ー⑤三右衛門尉忠易(養子)ー⑥五左衛門常諦ー⑦藤左衛門常任ー⑧藤左衛門常通ー⑨藤左衛門常利(養子)ー⑩藤左衛門常庸ー⑪藤左衛門常賢ー⑫敬助常香ー⑬三右衛門忠紹(養子)ー⑭栄之進忠明ー⑮文右衛門常暢(養子)ー⑯昌吉郎常超ー⑰亀彦