矯公羨
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矯公羨 | |
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各種表記 | |
漢字・チュノム: | 矯公羨 |
北部発音: | キェウ・コン・ティエン |
日本語読み: | きょう こうせん |
矯 公羨(きょう こうせん[1][2]、キェウ・コン・ティエン、ベトナム語:Kiều Công Tiễn / 矯公羨、生年不詳 - 大有11年(938年))は、五代十国時代の安南の豪族。『新五代史』および『十国春秋』では皎公羨(ベトナム語:Kiều Công Tiễn / 皎公羨)と記される。
生涯
[編集]峰州(現在のフート省ヴィエットチー市バックハク坊)の豪族として頭角を現した。楊廷芸に仕えていたが、大有10年(937年)3月に楊廷芸を殺して[3][4][5][6]自立し[7]、節度使を称した[8]。楊廷芸の娘婿であった呉権がこれに対して挙兵した[6][7]ため、矯公羨は財物を送って南漢に救援を求めた[4][5][7]が、大有11年(938年)、万王劉弘操率いる[7]南漢の援軍が到達する前に呉権の軍に殺害された[3][5][8]。
出典
[編集]- ^ 平凡社編 編『アジア歴史事典』 2巻(新装復刊版)、平凡社、1984年4月(原著1960年)、405頁。ISBN 978-4582108002。
- ^ 池内宏、矢野仁一、橋本増吉編 編『東洋歴史大辞典』 上巻(縮刷復刻版)、臨川書店、1986年10月1日(原著1937年)、762頁。ISBN 978-4653014690。
- ^ a b 『越史略』巻上 歴代守任
- ^ a b 『大越史記全書』外紀巻之五 南北分争紀
- ^ a b c 『十国春秋』巻六十一 南漢四 列伝
- ^ a b 『ベトナム史略』 第1巻 第2部 第5章 第三次北属
- ^ a b c d 『新五代史』巻六十五 南漢世家第五
- ^ a b 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉、58-59頁。ISBN 4-12-101372-7。