コンテンツにスキップ

矯公羨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
矯公羨
各種表記
漢字チュノム 矯公羨
北部発音: キェウ・コン・ティエン
日本語読み: きょう こうせん
テンプレートを表示

矯 公羨(きょう こうせん[1][2]、キェウ・コン・ティエン、ベトナム語Kiều Công Tiễn / 矯公羨、生年不詳 - 大有11年(938年))は、五代十国時代安南の豪族。『新五代史』および『十国春秋』では皎公羨ベトナム語Kiều Công Tiễn / 皎公羨)と記される。

生涯

[編集]

峰州(現在のフート省ヴィエットチー市バックハク坊ベトナム語版)の豪族として頭角を現した。楊廷芸に仕えていたが、大有10年(937年3月に楊廷芸を殺して[3][4][5][6]自立し[7]節度使を称した[8]。楊廷芸の娘婿であった呉権がこれに対して挙兵した[6][7]ため、矯公羨は財物を送って南漢に救援を求めた[4][5][7]が、大有11年(938年)、万王劉弘操中国語版率いる[7]南漢の援軍が到達する前に呉権の軍に殺害された[3][5][8]

出典

[編集]
  1. ^ 平凡社編 編『アジア歴史事典』 2巻(新装復刊版)、平凡社、1984年4月(原著1960年)、405頁。ISBN 978-4582108002 
  2. ^ 池内宏矢野仁一橋本増吉編 編『東洋歴史大辞典』 上巻(縮刷復刻版)、臨川書店、1986年10月1日(原著1937年)、762頁。ISBN 978-4653014690 
  3. ^ a b 越史略中国語版』巻上 歴代守任
  4. ^ a b 大越史記全書』外紀巻之五 南北分争紀
  5. ^ a b c 十国春秋』巻六十一 南漢四 列伝
  6. ^ a b ベトナム史略』 第1巻 第2部 第5章 第三次北属
  7. ^ a b c d 新五代史』巻六十五 南漢世家第五
  8. ^ a b 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』〈中公新書〉、58-59頁。ISBN 4-12-101372-7